9,クマのぬいぐるみ
薫風に乗って移動している最中、スリジエは言いました。
「エマ、ごめんなさい。先ほどプリュイの元へ向かうときに使った魔法のせいで、私は少し眠らなければなりません。夏に着いたら夏の魔女がいる夏の城を目指すのです。私がいなくても大丈夫ですか?」
エマは元気に答えます。
「私は大丈夫よ。スーが目を覚ますころにはきっともう夏の城のベッドの中にいるはずだわ。今度はどんなベッドが私を迎え入れてくれるのかしら。楽しみ!」
エマは春の城で経験した桜のベッドの時のような体験を期待しているようでした。もし夏の城ならではのベッドが用意されていたら、春夏秋冬、すべての季節で素晴らしいベッドが待っているはずですね。頑張ります。
「エマの疲れを吹き飛ばしてくれる素晴らしいベッドだと良いですね。それではエマ、あとはよろしくお願いします。」
「おやすみ、スー。」
スリジエが目を瞑ると周りに小さな桜の花びらが集まり始め、スリジエを覆ってしまいます。そしてその花びらが徐々に収縮し、親指くらいの大きさの一枚の花びらに変化しました。その花びらは一瞬ふわっと漂うと、エマの洋服のポケットの中へ入っていきました。スリジエは姿を隠してしまいましたが、その一枚の花びらは、まるでスリジエがそこにいてくれるという安心感をエマに与えてくれていました。
すたっ。
エマは地面に着地します。薫風による移動は終わったようです。
「うわぁ!」
エマは驚きの声をあげます。彼女が今見ている風景は絵本の中でしか見たことのない景色だったのです。
ザザーン、ザザーン。
波の音が聞こえます。エマが降り立った場所は海辺の砂浜でした。
「すごい!すごいわ。これが海なのね。ずっと奥まで海の青が続いているわ。最後には茜色のお空と重なっている!こんなにたくさんの水を見るのは初めて。私が毎日運んでいるバケツの水を一体何回運んだらこんなに大きな海になるのかしら。私の身長の成長くらい、とても長い時間がかかるのでしょうね。ママは私の身長はそのうち大きくなるわ、って言ってくれるけどそのうちっていつなのかしら。」
エマはマリーが度々口にしている「そのうち」に疑問を抱き始めるくらい頭の良い子です。そのうち大きくなる。そのうち雪は溶ける。そのうち分かる日が来る。そのうちは子供を言いくるめる便利な言葉です。
「冬を何とかすることももちろん大事なのだけれど、「そのうち」もすごく大きな問題だと思うわ。次のクリスマスには何をサンタさんにお願いするか考えるくらい大きな問題よ。「そのうち」が分かれば、いつママと同じくらいの身長になれるかだってすぐ分かるもの。」
エマはそのうちについて考えながら砂浜を歩き始めます。北東に向かって広がる海は綺麗に輝く夕日を反射し、エマの目に幻想的な景色を映し出していました。するとその美しい風景の中に海鳥が数羽飛んでいるのを見つけます。
「海鳥が集まって何をしているのかしら。」
気になって近づいてみると、海鳥によって波打ち際に打ち上げられたぬいぐるみが攻撃されているのを発見しました。ぬいぐるみは体中の継ぎ目の糸がほつれ、中に入っている綿が体から飛び出してしまっています。エマはぬいぐるみを助けるために海鳥に言いました。
「やめなさい!その子が可哀想じゃない!」
するとリーダーらしき一番大きい海鳥はエマを見ると言いました。
「おい!人間が近くにいるぞ!みんなずらかれ!」
海鳥たちはぬいぐるみから離れて遠くへ逃げていきました。エマはぬいぐるみに駆け寄ります。近くで見るとそのぬいぐるみはクマの形をしていることが分かりました。
「クマさん!大丈夫?もう海鳥はいないわ。」
「あぁ、そうなんだ。良かった。」
クマのぬいぐるみは辛そうな声で話します。ですがエマは特に驚いたりはしませんでした。これまでカエルや鳥が喋っているのを体験したのです。もうぬいぐるみが喋ろうと驚いたりはしません。それにエマはこんなことも思っていました。
スーみたいな優しい対応をできるようになりたいわ。そうすれば私にだって、もっと色々な人を助けてあげられると思うもの。
今のエマにとってスリジエは一番身近の目標になっていました。初めて会ったときから憧れの気持ちを持っていましたが、梅雨の精霊との一件の後はその思いがより大きくなったようです。
「助けてくれてありがとう。危ないところだった。全部の綿を取られたら僕は死んでしまうから。でもどうしよう。僕は裁縫が得意ではないんだ。ましてや自分を縫うことなんてとても出来はしないよ。このままだと綿を取ってくださいと言っているようなものだ。僕の綿は動物たちの寝床にぴったりだからね、いつ襲われてもおかしくない。」
エマはマリーのことを思い出していました。マリーならぬいぐるみを治すことは簡単なはずなのです。エマが着ていた服はすべてマリーが作ってくれたものでしたので裁縫は得意でした。ですが今はそのマリーはいません。無いものねだりというものです。かといってエマにぬいぐるみを治せるほど裁縫の力はありませんでした。
「ごめんなさい。私はあなたを助ける力はないの。誰かあなたを治してくれる人を知らないかしら。」
クマのぬいぐるみは力を振り絞って言います。
「夏の魔女は裁縫が得意だと聞いたことがあるよ。どんな服でもどんなぬいぐるみでも、針と糸と布があれば完璧に作って見せる、素晴らしい女性だとも聞いているんだ。」
これは良い情報を聞くことができました。ちょうどエマも夏の魔女に会いに行くところです。
「実は私も夏の魔女に会いに来たの!どうやったら会えるの?」
クマのぬいぐるみは答えます。
「それなら急いだ方がいい。夕日が道を作ってくれている間でないと、夏の城へはいけないんだ。もしよろしければ案内するよ、その代わりと言ってはなんだけど、僕を夏の魔女の元まで運んでくれないかな?」
「えぇもちろんよ。だって放っておけないもの。そうだわ、あなたのお名前は何て言うの?」
「僕はトムって言うんだ。前の持ち主が付けてくれた名前、よろしくね。」
「よろしく、トム。それじゃあ早速なんだけど、どうやったら夏の城まで行けるのか案内を頼めるかしら。」
エマはトムを両手で優しく抱え、既に出てしまった綿は背中のリュックにしまいました。
「わかったよ。この道をしばらく行くと2本のヤシの木が見えてくる。その間から海中に向かって歩いていけばいい。あとは道なりに進むと、時期に夏の城に着くよ。」
それを聞いたエマはびっくりしたように言い返します。
「海中に向かってですって?そんなの無理よ。ぬいぐるみのトムは分からないのだけれど、人間は水中で息ができないのよ。昔、夏の季節にママと近くの池に行って潜ったことがあるけれど、水中の中で口を開けて息を吸い込もうとしても、水しか入ってこなかったわ。だからすごく苦しくなってすぐに水面に出てしまうの。息を止めても同じよ。しばらくしたら苦しくなって、同じように水面に上がるしかなかったわ。」
トムはエマを諭すように言います。
「大丈夫、その道には夏の魔女の魔法がかけられているから、体が濡れることも、息ができなくなることもないんだ。だからお願い、僕を信じて。」
エマはトムを信じてみることにしました。本当のところ、もし息ができなくなったらすぐ水面に向かって泳ごうと思っていました。仕方のないことです。誰だって水中で息ができるといわれて素直に信じることはできません。命にかかわることなのですから。それにポケットの中には桜の花びらになったスリジエもいます。疑いながらもとりあえず進んでいると、ヤシの木が2本見えてきました。ここまではトムの言っていた通りです。トムが言います。
「ここだよ。ここから夕日に向かって歩くんだ。さぁ。」
エマはトムの言った通り進みます。まずは右足を海水に沈めます。次は左足。
あれ?濡れた感じがしないわ。確かに私の両足はもう海水についているのに。
エマはまた歩き始めます。そして徐々に海面はエマの目に近づいてきます。膝、腰、桜の花びらも海水の中に入ります。濡れている感覚はありません。そして胸、トムを支えている腕も海水の中に入ってしまいました。
「トム、苦しくない?」
エマはトムに聞きます。
「大丈夫だよ。ほら、声も出てるし。」
トムは努めて元気な声で答えます。エマの不安をこれ以上大きくしないように、というトムの優しさでした。エマは覚悟を決めました。その覚悟は嫌いなほうれん草を一口で食べようとする覚悟と同じくらい勇気がいることでした。
ザブーン
エマの頭が海水に完全に浸かります。まだ疑いの念を残していたエマは事前に地上の空気を肺一杯に詰め込んでいました。きっと今の彼女の顔は真っ赤になっているでしょう。もちろん照れているときの真っ赤とは違う意味で、ですけどね。
しばらくたつとエマは苦しさを感じるようになってきました。それもそのはずです。地上であろうと海中であろうと、息を止めていたら誰だって辛くなってきます。とうとうエマは耐えきれなくなって肺の空気を吐き出してしまいました。そしてなくなった分の空気を補おうと呼吸をします。
「…あれ?私、息できているわ。水の中なのに、トムの言ったとおりだったわ!私、息できてる!」
エマは嬉しくなってトムに言います。
「言った通りになっただろう?さぁ、日没までに夏の城に入ってしまわないと。もし辿り着かなかったら、今度は本当に息ができなくなってしまうから。」
「それは大変だわ。日が暮れるまでには帰ってきてとママに言われたのに、間に合いそうになくなってしまうくらい大変なことだわ。」
エマは少し駆け足で夕日の道を移動し始めました。そしてすこし周りも見る余裕が生まれてきたのでしょう。エマは自分が普段、決して見ることのできない海の中にいることをやっと実感し始めます。エマの周りには鮮やかな色でお化粧をした魚たちが元気に泳いでいます。
なんて綺麗なのかしら。魚は泳いでいるはずなのに、まるで飛んでるみたい。つまり鳥と魚って実はお仲間さんかもしれないわ。だって鳥は空の上を飛べるけど、海では上手く動けない。魚は海の中を飛べるけど、地上では上手く動けない。ほら、似たもの同士じゃない?
さらにエマは上を見上げます。
私がいつも見ている水の表面って水の中だとあんな風になっているのね!まるで水の上にとっても澄んだ透明なカーテンをかぶせて。この綺麗な景色を閉じ込めているみたい。
水中はエマにとって初めての連続でした。目に見えているすべてがピカピカ輝いていて宝石の様。どの一瞬も見逃したくない。そんな体験を9歳のエマはしているのです。夕日の道は下り坂になっていて、エマ達はどんどん深く潜っている、いえ、正しくは下っているですね。彼女たちは今、夕日でできた坂を下っているのですから。下っているととっても大きな水晶が現れました。そしてその中には様々な緑色がエマを待っていました。エマは地面に水平で一番半径が大きい部分にたどり着きます。
「ここが夏の城なのね。」
夏の城は海中の水晶の中にあったのです。それだけでも十分驚くことなのですが。彼女たちは水晶の中に入ってもっと驚くことになります。
「エマ、歓迎するよ。ここが夏の城だよ。」
エマの腕に包まれていたトムは言いました。そしてエマは水晶への第一歩を踏み出します。
そこで彼女はもう何度目になるかわからない感嘆の声をあげました。