藤原道長ってどんなひとだったんだろう
藤原道長は源氏物語の光源氏のモデルともいわれています。
世の中には、奇跡的にトップの立場に立った人間が何人かいる。室町時代の足利義教、太閤豊臣秀吉、徳川吉宗、井伊直弼、最近では小泉純一郎氏なんかがいる。あり得ない幸運を乗り越えて政権を手にした人間は、得てして強権を発動する。今回語る藤原道長もこの幸運な人の系列に並ぶ人物だと思います。
前回も藤原兼家の五男として生まれます。その時には長子である兄、道隆は13年も年上で、次男道綱の母は「蜻蛉日記」の作者と知られている人物です。道隆と道兼という同母兄がいる時点で嫡流の家系であってもかなり厳しい立場である道長ですが、彼にはあり得ない幸運が訪れます。
兄である道隆、道兼が995年に相次いで亡くなります。そして一条天皇の后であり、道隆の娘である藤原定子も1001年に亡くなります。しかし道隆の嫡子である藤原伊周は道長の8つだけ年下なだけに、道長に主流が回ってこない可能性もありましたが、これは政争によって、道隆の死の翌年996年に大宰府に左遷させられます。伊周その後、京都に復帰しますが、主流から離れた上に定子の死後も様々な不幸に見舞われ1010年に亡くなります。
道長の兄道兼は、道隆の死後数日に亡くなったとされ、これも後世の徳川吉宗の、紀州藩主になった場合によく似ています。真実はどうだったかは知りませんが、甥の伊周の不運は道長との政争によるものでしょう。道長の記録は「大鏡」や「栄花物語」などの物語では実像は見えてきにくいです。勝ったものの作る歴史には、フィルターがかかってしまうからです。
息子の藤原頼通(992年ー1074年)が、道長の別荘であった宇治の平等院に、1053年に鳳凰堂を立てます。これを父親の政争でなくなった人たちの、祟りを恐れたとも見えますが、鳳凰とは中国史において、新王朝の設立時にみられる吉兆とされることから、私たちが新しい実力者だと言外に言っているかもしれません。
ちなみに京都にはもう一つ鳳凰にちなんだ建物があります。東山の鹿苑寺、通称金閣寺です。あれも足利義満の権力の象徴として建てられたものですから、鳳凰堂もそっちの意味のほうが強いかもしれません。
藤原道長、頼道父子の時代が、藤原氏の黄金時代と言われています。その為、彼らに対して都合の悪い記録は少なく、実像が分かりにくくなっています。




