何でこの時代は物語文学が発展したんだろう。
いつの時代も、人間暇になれば趣味に走るということですね。
ひとことでいうと「暇だった」だらです。一般の国民は縄文時代から大して変わっていません。竪穴式住居のようなものもまだ残っていたとされています。
それに比べて貴族、それも高級貴族といわれる人は何をしていたかと、祟りを怖がった時代ですので、易経から今でいう占いが発達します。陰陽道もある意味占いの一種です。そうしてその占いによって行動をします。いまだに天皇家が祭祀を行っているのも、そういう流れの一つと言えます。
そして出仕した後が、私たちの知っている仕事になります。まあデスクワーク中心で昼前には終わっていたらしいです。日本の国土は平安時代も今も、干拓地以外広さに大きな変化はありません。はっきり言って仕事しなさすぎです。そりゃあ地方で反乱がおこるでしょうね。で午後からは趣味の時間になります。
私たち現代人も暇があれば何をしているか、趣味の時間にあてますよね。なろうは平安時代にはありませんでしたが、教養のある貴族は、中国の四書五経や文学が頭に入っています。そうなると何ができるかといえば、今でいう「二次創作」をすることができます。もしくは日記を書いたりもできます。日記文学や物語文学というのは案外、今の私たちの行動に近いのかもしれません。
「紀貫之(866年?-945年)」は土佐日記の作者と言われています。935年の土佐の守の任期終了にての、土佐から京都までの工程を残した、日記とも紀行文ともいえるものです。
貴族の男性は公務がありますが、女性の場合は女官として使える以外、大した仕事はありませんでした。そして天皇の后などの高位の人に使えるには、教養と、とっさのことに対応するアドリブ力が必要とされました。知性と教養のある上昇志向の強い貴族の娘、それが女官として、今でいう派閥の長の取り巻きになっていきます。
まあ自己顕示欲の強い女性が集まれば、女官の中にもリーダー格になる人が出てきます。有名なところでは「枕草子」を書いた清少納言(966年頃ー1025年頃)でしょうか。彼女の本名は実は伝わっていません「清原元輔の娘」としか伝わっておらず、」生没年も定かではありません。
もっとも清原元輔という人自体が三十六歌仙の一人で、彼女の一族も文学者系であったというのも彼女が出仕した理由かもしれません。清原家の先祖に少納言の地位の人がいたようですから、清原少納言家の娘というのが名前の由来かもしれません。
生没年が定かな女性は藤原氏のトップの妻や天皇第一皇妃くらいなものです。彼女の書いた枕草子は随筆(今風に言えばエッセイ)です。宮廷内の自分のグループ内での出来事をまとめたものです。
次に有名なのは「紫式部(生没年不詳)が有名ですね。この人も「藤原為時の娘」で父親が式部大丞(正六位下ということはかなりの下級官僚です)になったため籐式部とよばれ、彼女の作品である源氏物語のヒロインである紫の上よりペンネームをとって紫式部としたと言われています。日本における長編物語の作者の始まり、なんて言われていますが、内容は貴族の抗争と、女性の争いが中心ですので、今風に言えば長編同人作家の走りなのかもしれません。
なぜ彼女たちの生没年が行くわかっていないのかというのは、仕えていた女性に左右されるからです。清少納が仕えたのは藤原定子(977年ー1001年)は藤原道隆(953年ー995年)の長女であり、一条天皇の后です。この当時の天皇の后は家柄だけでなく、教養が求められましたので、その教養を認められての出仕だと思われます。ブレーンや家庭教師のような存在だったでしょう。
対して紫式部は一条天皇の后、「藤原彰子(988年ー1074年)」、父親は「藤原道長(966年ー1028年)(道隆の弟)」に仕えます。この頃は藤原氏内部でも兄弟の対立は不思議ではありませんでした。親が対立し、娘が同じ天皇の后になっているのです。派閥同士で対立しないわけがありません。ですので「紫式部日記」での宮廷内での先輩格であるはずの清少納言に対する評価が厳しくなっています。
清少納言は藤原定子なき後、藤原道隆もすでになく、その子藤原伊周も政権闘争に敗れたため、宮中から去ります。歴史の主流派から脱落したのですから、記録がなくなるのは当然です。
また紫式部も1012年以降は宮中から辞したようで、彼女のその後の記録も曖昧になっていきます。この頃に記録に残っている人物というのは非常にまれであり、こと女性に対しては有名人であっても名前が知られていないのは当然のような時代でした。
物語や日揮は残っていても、作者不詳なんて言うのよはよくあります。こののちも「平家物語」や「太平記」、江戸時代になってさえ「写楽」が何者であるかすら、確定した情報は残っていなかったりします。
当時の宮中内なんて、今の芸能界より世の中が狭かったみたいですね。