平安遷都時の状況を確認しておこう
激動の平安時代が始まります。
「平安京」の意味は「日本後記(841年完成)」に由来がありますが、読む限り人々の「平安を求める心をくみ取って」名付けたとあります。何が平成の時と同じような命名ですが、この時代もあまり平和だったとは言えません。乱や変として歴史の残っているものでも10を軽く超え、前九年、後三年の役、源平の合戦まで含めたら記述のあるものでも30を超えるでしょう。願いは得てしてかなわないものです。
怨霊から逃げて平安京に遷都した桓武天皇は、何をはじめたかと言えば「蝦夷の征討」と、「続日本紀(797年成立)」、「遣唐使の派遣」とまるっきり内政から目を背けていました。外に敵をつくり、歴史を創り、海外に助けを求める。いつの世も変わりませんね。
古来より朝廷と蝦夷との対立は長く、神話を除けば、581年の敏達天皇の頃(大和時代)より記録が残っています。その後何度も兵を派遣し、最前線に「柵」と呼ばれる防衛拠点を造り、攻防を繰り広げていましたが、中には渡島(樺太?)までの征伐の記録もあり、記述の信用性には疑問が残ります。780年には「百済王俊哲(740年頃-795年)」という百済系渡来人の子孫まで、蝦夷との戦いに参加しています(続日本紀に記述あり)。
そして、桓武天皇の時代に有名な人物が現れます。初代征夷大将軍「坂上田村麻呂(758年-811年)です。彼の経歴は官僚というより武官、それも前線で戦う指揮官タイプのようで、彼が征夷大将軍に任ぜられた(797年)の理由も、その前回蝦夷征討失敗(789年)の理由である、補給の確保がうまくいかなかった、現場と朝廷の意思疎通がうまくいっていなかったなどの、問題点を解消するために現場の権限を強くする意味でつくられた役職の様です。
その蝦夷との戦いも804年に一度中止されます。理由は軍役が国民の負担になっているとの理由だったそうです。
次に「続日本紀」の編纂です。これは文武天皇の時代(697年)からの桓武天皇の時代(791年)までの記録ですが、途中で文体が変化する事、一部の記述の紛失、藤原氏に好意的な記述と、藤原家以外の人物に悪意の見られる記述も見られます。
私に言わせれば、藤原家の都合のいいように書いた歴史書に見えます。
そして、804年、805年と連続しての「遣唐使」の派遣、その前の派遣が779年と25年も空いていたのにここだけ何故か連続で派遣しています。
ここで派遣された人物には最澄(776?年-822年)や空海(774年-835年)などの僧侶が派遣が観られます。空海は記録にも804年12月から、805年3月まで長安に滞在し、密教を学んだ記録がありますが、最澄には804年7月に日本を出発し、帰国が翌805年5月となっているため、どれだけ留学によって効果があったのかは解りません。今風にいえば短期留学、もしくは経文の買い付けでしょうか。
そして806年4月桓武天皇がなくなり、「平城天皇(774年-824年)が即位します。
歴史では桓武天皇は「平安京に遷都した人物」程度にしか習った覚えがありませんが、良く調べると中々波乱万丈人生だったように見えます。
因果は巡る、これは桓武天皇だけでなく、その子である、平城天皇、嵯峨天皇にも言える事なのです。