桓武天皇ってどうして遷都したんだろう
「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」なんてよく聞きますが、そんな穏便な感じじゃなかったみたいですね。
実は称徳天皇(770年没)後に「白壁王(709年-782年)」という天智天皇の孫で、藤原氏が押した人物と、天武天皇の孫で、臣籍降下していた「文室浄三(茅野王)」を推した、吉備真備派の対立がありました。。
結局はその後「光仁天皇」が即位し、彼を推した「藤原百川(732年-779年藤原不比等の三男宇合の八男)が権力の中枢に立ちます。異母兄弟である藤原広嗣が、乱を起こして処刑されているに中々不思議な気がします。どうも現代人とは感覚が違うようです。
その後、天武系の血筋を母に持つ、井上内親王(父は聖武天皇の第一皇女、光仁天皇の皇后)が天皇を呪詛したとの理由で廃され、皇太子であった他戸親王(桓武天皇とは異母兄弟)も廃太子され、その後は平民の地位に落とされ,幽閉の後775年5月30日と同日に亡くなっています。これによって天武系の血筋は絶える事となります。そして藤原百川死後に、井上内親王に祟られることを恐れた、光仁天皇は秋篠寺を建立します。しかしその後も災害や、自らや山部親王の大病もあり(水鏡1195年成立に記載あり)、その後体調不良の為、781年に譲位、翌782年に亡くなっています。
井上内親王の皇太子とされたのが、「山部王(後の桓武天皇)(737年-806年)」です。光仁天皇の即位が62歳と遅く、母である「和新笠(光仁天皇即位後に高野姓を賜る、百済系の渡来人の子孫と言われている)」間に生まれ、同母弟には「|早良親王(さわらしんのう750年-785年)がいます。彼の立太子には陰謀説があり「続日本後紀(869年完成)」にもその説をほのめかすような文章があります。ともかく桓武天皇は、藤原家寄りの人物だったことは間違いありません。
そして789年父の譲位により即位し、弟の早良親王を皇太子とします。そして即位後、藤原百川の姪を妻にし、安殿親王(後の平生天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けます。
その後684年に井上内親王怨霊から逃げるように長岡京に遷都します。しかしその翌年、685年に藤原種継(父は宇合の三男である清成)が暗殺されます。この事件に連座し、弟の早良親王は淡路に配流(その途中に死去)、大伴氏の一族も死罪や配流(死去していた大伴家持の官位剥奪)、その他のものも配流や死罪になっています。
その後は桓武天皇の皇后や近親者の相次ぐ死や、飢饉や疫病が蔓延したりと、良くない事が続き、陰陽師に早良親王の怨霊の鎮護を祈祷させたが効果がありませんでした。
そして「和気清麻呂(733年-799年)の建議(進め)もあり794年に平安京に遷都しています。
この和気清麻呂ですが、道鏡の「宇佐八幡宮神託事件(769年)」以降官僚として昇進していきますが、記録を見る限り、あまり有能だったとは思えません。ただ桓武天皇の母方の「和(倭)氏の系譜の編纂」を行い、子供の代も官僚として取り立てられています。
「和氏」と「和気」ですか、どちらも「和家」何か不思議な因縁があるようにも見えますね。
ここからは個人的感想ですが「悪人も死んでしまえば仏様」の感覚の日本において、死者の官位剥奪なんて行為は日本人的にはありません。まるっきり中華文化圏の発想ですね。
天智派と天武派、異母兄弟だと言われている二人の家系が、100年以上対立していた理由は謎ですが、結果は天智派が勝利します。私には、天智派には藤原氏もしくは渡来系が、天武派には皇族や、古来からの豪族の子孫が多いようにも見えます。
奈良時代と言えば歴史の授業では、天平文化や大仏開眼、国風文化の成立など、日の当たる部分のみを教わりましたが、実際は派閥争いと粛清の連鎖、古事記や日本書紀の信頼性の問題などの、闇の部分も多く感じられました。
桓武天皇って、かなりの強運と同時に、すごく祟られる人生だったようですね。