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疑史(ぎし)古代日本の歴史  作者: 鹿島三塁手
第三章 奈良時代って何だろう
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橘諸兄(たちばなもろえ)の台頭と、その後はどうなったんだろう。

どうやらこの「橘諸兄」という人は調整型のリーダーだったようです。

 「橘諸兄たちばなもろえ(684年-757年)は父を「美努王(生年不詳-708年)」、母を「橘美千代」に持ち、聖武天皇(701年-756年6月)の妻である光明子(701年-760年)とは、異父兄弟の間柄にあたります。記録上、目立った功績はありませんが、着実に実績を重ね、長屋王の変(729年)、藤原四兄弟の死(737年)のあと、実力者の相次ぐ死によって、「鈴鹿王すずかのおおきみ(生年不詳-745年)」と共に政権の中枢を担う事となり、元遣唐使であった吉備真備(695-775年)」「玄昉げんぼう(生年不詳-746年)」などの、知識人を登用するし、政治に支障のない体制を築きました。


 藤原広嗣(藤原四兄弟の三男宇合の子)が740年に大宰少弐(九州太宰府、親族への誹謗にて左遷)にて、政権中枢にあった真備、玄昉の追放を求め「藤原広嗣の乱」を起こし失敗しまが特に政権に対しての変化はなく、749年に聖武天皇が退位、位を光明皇后との内親王である孝謙天皇(後に称徳天皇と重祚)が即位(718年-770年)状況は大きく変わります。

 孝謙天皇の母である光明皇太后の一族である「藤原仲麻呂(706年-764年)(藤原武智麻呂の二男)」が勢力を伸ばします。それに対しての批判を、橘諸兄は抑えようとしますが、結局756年1月に職を辞し、翌758年1月に亡くなっています。

 そして、7月に「橘奈良麻呂の乱」がおこり、長屋王の遺児「黄文王きぶみおう(生年不詳-757年)」、「道祖王ふなどおう(聖武天皇の遺言により孝謙天皇の皇太子とされる、も翌57年に廃される)」「大伴古麻呂おおとものこまろ」「多冶比犢養たじひのこうしかい」「賀茂角足かものつのたり」は獄中死、「続日本紀」には記述はありませんが橘奈良麻呂も名前はないが同様に獄死したと思われます。他にも「安宿王」は一族と共に佐渡へ「大伴古慈悲(不比等の娘婿)は伊豆へ流罪、そのほかにも443人が処罰を受けたと記録(続日本紀)にはあります。

 

 この事件によって、藤原仲麻呂は藤原氏にとって邪魔な王族や、古くからの名族や政敵を一掃できたと言えるでしょう。そしてその直後に「続日本紀(670年)」が成立したのは偶然でしょうか?


しかし「橘奈良麻呂の乱」は「変」と言っていいほどの、大きな政治の転換期だった気がします。

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