なんで奈良時代って言うんだろう
平城京に遷っても同じ大和の国の中での移動でしかありません。なぜこの時代が奈良時代と区分されたのでしょう。
いきなり、何を言っているのかと思うかもしれませんが、奈良時代とは元明天皇が平城京に遷都し(710年)、桓武天皇が平安京に遷都(794年)する時代までの事を指します。別にこの区分に文句をつけるのではなく、なぜ「奈良時代」というのかという事についてです。
大和時代、と平安時代の間なのですから、「平城時代」なのではないでしょうか。実は奈良の、同音異表記に「那羅」「寧楽」と共に、「平城」という当て字があります。という事は「平城京」と書いて「ならのみやこ」と読んだのが正解かもしれません。
奈良の旧国名は大和です。しかし大和の元の字は「倭」と書いてヤマトと読みました。それを奈良時代になり一文字より、二文字の方が縁起が良いとされ、「大倭」とされました。その後一時「大養徳」と変更したり、「大倭」に戻したりした後、757年頃から「大和」に固定化されたようです。
でも「藤原京」の時代を藤原時代とは言いませんし、平城京も大和にあるのですから、ここまでを大和時代として良いはずです。律令政治が始まったのにあわせてなのなら、701年の大宝律令や天武天皇期の「飛鳥浄御原令」をもって奈良時代としても良いはずですが、そうではありません。
平城京以前の都であった「新益宮(藤原京)」跡から出土した邪気や悪鬼を払う呪符木簡から、何かを封印して逃げ、同時に藤原京から「厩坂寺」を今の興福寺(710年建立)の位置に移築し、時代区分も変更したように見えます。
なぜなら、奈良時代末期に都があった長岡京(京都府長岡京市周辺)から、同じように逃げるように「平安京」に遷都し、時代区分も平安時代としているのですから。
都を移すときは何らかの縁起の悪さ、居心地の悪さがあるようですね。




