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疑史(ぎし)古代日本の歴史  作者: 鹿島三塁手
第二章 大和時代って何だろう
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天武天皇と藤原氏の関係について考えてみよう

 天武天皇の壬申の乱(672年)後の経歴について調べてみます。翌年(673年)に即位し、様々な改革を行いました。

 彼を中心とし、皇族がそれを補佐する政治体制による、律令制度「飛鳥浄御原令あすかきよみはらりょう(後に散逸)の制定。新しい都(後の藤原京)の造営、「古事記」「日本書記」の編纂をはじめた事などの国家制度の確立。それと神道を整備し、仏教を奨励など後の文化面にも影響を強く残していますが、何故か彼の時代、遣唐使は一度も派遣されていませんでした。その為日本独特の「国風文化」の基礎を作った人物とも言えます。そして686年に崩御します。


 天武天皇の時代、藤原氏はどうだったのでしょうか?藤原鎌足(669年没)はもういませんでしたので、その息子の代になります。長男である「中臣真人なかとみのまひとは643年に生まれ、653年に遣唐使として唐に渡り(わずか10歳です)、665年に帰国、その年に亡くなったと記録(日本書紀)にあるので、父より早くなくなっています。この記述の他に仏教に帰依し、出家し「定恵じょうえ」となった事からも、神道の家柄である中臣家の中では特異な存在だったと言えます。653年と言えば皇極天皇が難波宮に残され、政治の中心が飛鳥に戻った時期ですね。鎌足は10歳の長男を、なぜ危険のある遣唐使に行かせたのでしょうか?まるで何かから逃すように。

 

 次男は藤原不比等ふひと(659年-720年) と言い、この人が後の奈良、平安時代の藤原氏の基礎をつくった人物でもあります。

 しかし、その割には彼の記述はそう多くはありません。669年に父の死去、672年に天智天皇も崩御し、壬申の乱で大友皇子の「近江朝」に連なっていた中臣一族も多く処罰を受けました。当時13歳であり、後ろ盾のなかった彼は、その後目立った功績もなく天武天皇の時代には、彼の記述はほとんどありません。

 日本書紀に彼の記録が出るのも、天武天皇の死後の688年に持統天皇(天武天皇の妻、文武天皇の母)の時代に31歳にして、従五位下に任命されてからです。彼の妻には橘氏の始祖となった「県犬養美千代あがたいぬかいのみちよ(別名橘美千代)の再婚相手におり(時期不明)自分の娘を文武天皇(聖武天皇の父、697年8月に即位)に入内じゅだい(即位直後に嫁がせる)、美千代との娘(後の光明皇后) を、文武天皇の第一皇子である首皇子くびきのみこ(後の聖武天皇)に入内(718年)させほどの実力者になり、720年に死去(63歳)しています。

 

 彼の業績としてもっとも有名なものは、701年の大宝律令の主編者とされ、その後も朝廷内での影響力を大きくし、古事記(712年完成、写本のみ現存)日本書紀(720年の完成)にも大きな影響を与えたのではないかと言われています。

 

 藤原不比等の人生を観ると、天武天皇在位期間(673年ー686年)と、それ以降ではまるで別人のように大出世しています。しかし歴史の授業で習うとしたら、大宝律令の主編者という位しか、主だった功績はありません、何故でしょう。


 

 

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