壬申(じんしん)の乱と、遣唐使の派遣ってなんだったんだろう
大化の改新のあとは大宝律令を習って、小学校の期は習わなかった気がします。
一言で言えば天智天皇亡き後、天智天皇の弟である大海皇子(天武天皇)と息子である大友皇子(明治3年に弘文天王と諡号)による争いの事をいいます。
事の経緯は天智天皇の崩御直前(671年)に大海人皇子が近江宮から、何故か奈良の吉野に移動ます(逃げたのでしょうか)。そして崩御(672年1月)の後に、大海人皇子は伊賀や伊勢、尾張、美濃などの国を廻り諸国の豪族を味方に付け、近江大津に侵攻、大友皇子の軍を退け(7月から8月)、飛鳥に都を戻し、天武天皇として即位ました。この一連の事件を総称して「壬申の乱」と言います。
ところで「変」と「乱」の違いは何でしょう。そのの政治体制に変化があった争乱が「変」で、変わらなかったものが「乱」なのだそうです。なるほど「乙巳の変」が変で「壬申の乱」乱ということは、天武天皇側が正統と見なされているという事ですね。
でもよく考えると、蘇我氏を打倒し、難波に都を置いたた事が「変」で、大海人皇子が大友皇子を倒して飛鳥に都を戻したことが「乱」なのです。乙巳の変のときにあった、蘇我入鹿が天皇を排しようとしていたのなら、乙巳の方も「乱」にならないとおかしい気もします。
飛鳥と難波、大津の違いは何でしょう。奈良は盆地で山に囲まれた土地であるのに対し、難波、大津は海や河を利用しての交流が一番に考えられます。大陸から渡来した帰化人には閉鎖的な豪族社会である、奈良より水上交通の要所である難波、大津の方が住みやすかったでしょう。
そして天武天皇が、地方豪族の力を得て飛鳥に都を戻します。まるで乙巳の変を全否定するかのように。
遣唐使は廃止まで20回(そのうち6回は中止や唐までいかず) 行われてています。おおよそ十数年から三十年に一度の割合で派遣されていますが、記録を読む限り大変に過酷なものである事がうかがわれます。
しかし、その内2回目(653年)から七回目(669年)までが乙巳の変(645年)以降、天智天皇の崩御(672年)までに行われ、第2回には藤原鎌足の長男である定恵も参加し、669年の鎌足の死去によって一旦停止します。そして次の8回遣唐使は、持統天皇の時代である702年になっています。
そしてこの6回も朝鮮半当島あった百済(660滅亡)と大きくかかわった内容となっています。どうやら天智天皇と藤原鎌足は百済に大きくかかわっていたようです。
「藤原家伝」という藤原氏の歴史書にはなぜか壬申の乱の記録がありません。




