蘇我入鹿と乙巳の変(いっしのへん)ってなんだろう
記憶だけでなく、色々調べつつ書いたのですが、謎は解決しませんでした。
今回は蘇我入鹿と乙巳の変について書いてみます。
父親である蘇我蝦夷と同じく、この人の記述(日本書紀)もすごく少ないです。この人も、若い時期は中国系の渡来人の旻って人に師事してるので、すごく外国びいきの秀才だったらしいです。そして、皇極天皇の即位(642年)に父親の跡を継ぐ形で天皇に仕え、翌643年10月6日に父親から大臣の地位を譲られたとあります。そして地位を譲られてすぐに従兄弟である聖徳太子の息子である山背大兄王一族を滅ぼしたと記述にあります。これにはいろいろな説があり、地政治的に邪魔だったとか、蘇我氏一門の勢力争いだったとかありますが、良く解っていません。
そしてライバルの居なくなった彼は増長し、645年に中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足)を中心とした勢力に、当時の皇極天皇の前にて殺害された、この事件を「乙巳の変」と言います。
この時の様子が、なぜか見てきたように克明に残っています。朝鮮半島の、高句麗、新羅、百済の使者がやってくるので参内した入鹿が、殺害される様子が事細かに書かれ、皇極天皇に「なぜ殺されなければならないのか」と問い、殺害の実行をした中大兄皇子に「天皇の位を奪おうとしたからだ」と言い放ったと日本書紀(720年編)にはあります。
昔『大化の改新』と習った歴史事変の名前が変わっています。どうやらこの後に起こった政治の変革の事を、大化の改新と言うのが現代の常識の様です。で何が変わったかと言えば、中大兄の皇子や中臣鎌子を中心とした政権に変わっただけでした。
しかしここにも謎があります。乙巳の変から80年近く経って編纂された日本書紀に、観てきたような記述があるのでしょうか?「国記」「天皇記」は次の日に、入鹿の父である蘇我蝦夷と共に燃え紛失してしまっています。証拠は残っていません。
また推古天皇(636年没)と、皇極天皇(乙巳の変後退位)の間にはもう一代天皇がいます。皇極天皇の夫である舒明天皇(641年没)です。ちなみに先述の中大兄皇子は舒明天皇と、皇極天皇のの二男と言われています。
つまり中大兄皇子も山背大兄王と同じく、蘇我馬子が祖父、蝦夷がおじで、入鹿が従兄弟になります。皇極天皇にとって乙巳の変とは、自分の甥を自分の息子が目の前で殺害した事件になります。
何かサスペンスもののドラマの様ですね。