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疑史(ぎし)古代日本の歴史  作者: 鹿島三塁手
第二章 大和時代って何だろう
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蘇我馬子、蝦夷ってどんな人なんだろう

この二人に対する日本書紀(720年編)の記述の少なさは、異常です。何か別の真実が隠されている気がします。

 先に聖徳太子のところで、書きましたが、蘇我馬子は聖徳太子にとっては大叔父にあたる人で、残した経歴も、なぜかほとんど太子とかぶっています。そして彼も626年に没します。そして彼の墳墓が、明日香村にある「石舞台いしぶたい古墳」だと言われています。

 私も昔、実物を見たことがありますが、石の柱で巨大な大石を支えている姿は、まるで何か危険なものを、封印しているようにも見えました。彼の経歴を見る限り、封印しなければいけない「怨霊」になるような行為は起こっていません。だからこそ余計に異様な光景として脳に残っています。


 次に息子である蘇我蝦夷えみしについてですが、これが驚くほど資料がありません。推古天皇の崩御後に聖徳太子の息子である山背大兄王やましろのおおえのおう(643年1230日没)を避け、舒明じょめい天皇を立て、その後息子の蘇我入鹿いるかに跡を継がせ、大化の改新(645年)息子の入鹿が殺害された後、遺体をわが家に運んで、なぜか何も事を起こさずに翌日自宅に火をつけて自害したことになっています(享年59歳)。同時に父と聖徳太子が編纂した「国記」「天皇記」も灰になったとされています(日本書紀の記述)。

 何でしょう、60年近く生きていたのに功績のひとつも残っていません。山背大兄王の殺害に息子が主導として嘆いたとだけ、日本書紀には記述がありますが、この殺害事件もなぜ年末の12月30日だったのでしょう。それに討たれた山背大兄王は母が馬子の娘で、蝦夷によっては甥、入鹿にとっては従兄弟いとこになります。そして山背大兄王は滅ぼされる時に「私が兵を起こすならかてるかもしれないが、行わない。私の死後は入鹿を罰してほしい」といって妻や子一族ともどもなくなったと伝わっています(日本書紀記述)。

 謎過ぎます。言っている事が理解できません。どうやら民を巻き込むことを非とし亡くなったことになっていますが、その直後に入鹿が645年6月12日に殺害されています。出来過ぎです。状況証拠があり過ぎであると同時に、その時代の記録が紛失しています。


 とにかく、今残っている蘇我氏に対する記録は、当時のものでなく、日本書紀(720年編)によるものなのです。


 「国記」「天皇記」がなぜか都合よく紛失しています。その後日本書紀が編纂されるまで、日本の歴史は書かれなかったのでしょうか?それとも同様に紛失してしまったのでしょうか。

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