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時代小説

遣らずの雨が三日降る

 花街に降る雨は色気がある

 どうどうと降る雨ではいけないし、大粒でも大味に過ぎる。

 絹糸のように、しっとりと皮膚に張り付くように降る雨がよい。 

 花街の雨とは、そのような雨である。

 雨が大地に落ちる音は、三味線を爪弾くそれに似ていた。


「曽根崎川に、降る……雨は……っと」

 総十郎はおぼつかない足取りで、傘も差さず道を行く。着物はじっとり重いが、この季節には却って心地がよかった。

 明け間近の花街は、粘りるような静けさだ。

 どの見世も扉がしゃん、と閉まって音も鳴らない。堅固な扉の向こうでは、一夜限りの遊戯の微睡みが名残のように張り付いているに違い無い。

 総十郎は酒臭い息を吐いて、周囲を見渡した。

 彼の左手にあるのは、大坂の中心を流れる曽根崎の川である。その川沿いに並ぶのは木格子窓の娼家、揚屋、そして茶屋。

 ここは大坂一の花街である。

 粋をよしとする江戸遊女と違って、上方遊女は情が深い。たおやかで、柳腰。しゃなりととろけそうな上方の遊女は、今朝もまた総十郎を引き留めて、彼の膝を涙で濡らしたものである。

 雨が降る間は帰ってくださるな。昨夜もその前も、女は総十郎を引き留めた。

 しかし総十郎はその涙を払って見世を出た。こんな酔いぼらけの朝は、別の娘の膝で無ければ眠れないのである。

「よい雨だな」

 雨の風景と相まって、上方遊女の情がしみじみと感じられる。雨が一段と、美しく見える。

「遣らずの雨が三日降る、ってね」

 千鳥足で、総十郎はたたらを踏む。

 振り返れば曽根崎川が、静かに雨に濡れている。まるで白霧のような煙がふわりと上がり、総十郎の足をからめ取る。

 江戸に生まれた総十郎だが、朝靄に煙る花街だけは上方の方が美しいと思うのだ。



「よぉ」

 総十郎は軽い口振りで、一軒の茶屋をくぐった。

 艶やかな黒瓦に出格子窓のしっとりとした茶屋である。

「まあまあ、二代目。こんな成りで」

 まだ明けもしていないというのに、戸を揺らせばすぐさまに女の声が総十郎を出迎える。

 鼻につくのは、ぷんと薫る伽羅の香だ。甘い香りは酔いの鼻に心地がいい。

「すまねえな古文婆。邪魔ぁするぜ。お線はいるかい」

 総十郎はふざけたような物言いで、片手を上げて座敷に腰を落とした。

 拭き清められた畳が青々しく美しい。真ん中にある囲炉裏には火がおこされて、雨冷えの体を温めた。

 ぱちりと弾ける炭の音も耳に良い。

 薄暗い部屋の中には、小さな行灯があるばかり。その行灯に迫り来る勢いで、古くさい本が山積みとなっていた。

「まあまあこんなに濡れて……」

 本をかき分けるように現れたのは、濃い紫の着物を纏う女主人である。

 婆、と総十郎はふざけて呼びかけるが、そう呼ぶのは勿体ないほどに良い女であった。

 年増ではあるものの、目尻は柔らかく襟元から見える白い膚はむっちりと吸いつくようで、若い娘にはない妙な色気がある。青い朝靄の中で見ると、はっと息をのむ美しさだ。

 彼女は既に化粧も着替えも済ませた体で、総十郎の体を手ぬぐいで拭う。

「えらく早いな、古文。お前も朝帰りかい」

「馬鹿お言いじゃないですよ。あたしゃ、朝まで本を読んでいたものだから、眠くて眠くて」

「本を読んでいたような成りにゃみえねえな。どこかに良い旦那でもついたんじゃないのか。どうにもお前さんには秘密が多い。こんな新地の良い場所で茶屋を一人で切り盛りするなんざ、普通の女にゃ無理だ。どうせいい旦那が……」

 古文の目が、総十郎を軽く睨め付けた。青くもみえる、不思議な目の色である。そして彼女の細い指が総十郎の腰をつねり上げる。

「なんて嫌な酔っぱらい。出入り禁止にしますよ」

「若旦はん!」

 パッと、空気が華やいだ気がした。

 総十郎はその声につられて顔を上げる。赤だ。目の前に美しい、赤の色がある。

「お線!」

 それは部屋に飛び込んできた、娘のまとう着物の色だ。目が覚めるような赤の色なのである。

 赤とは言ってもけして下品な色ではない。彼岸花のような、赤漆のような、艶めいた赤なのである。

「お線よお」

 駆けてきた娘は愛らしい顔をしている。ぷくりと膨れた頬に、太い眉。

 彼女は寝起きなのか、軽く結っただけの髪を肩口でまとめている。それがまた愛らしかった。

 お線は、ふらつく総十郎の腕を支える。まるで引き寄せられるように、総十郎はお線の膝に頭を落とした。

 その顔を、お線が困ったようにのぞき込む。

「若旦はん、またこないに飲んで……ほんに、あほうな……」

「いいないいな。そうやって罵ってくれ、お線。お前の上方の言葉は柔らかくてくせになる……」

 扇子でお線の肩を軽く撫でれば、その扇子を古文が取りあげて睨んだ。

「言っときますけどね、二代目。ここは揚屋じゃないんですよ。芸者の茶屋で、本来は泊まったりする場所じゃあない」

「わかってる、わかってる。芸は売れども色は売らずってね」

 柔らかな絹の着物に頬を寄せ、総十郎はけたけたと笑う。

 そうだ。ここは本来、ただの茶屋である。昨今の江戸では茶屋の娘でも身を売るものがあるというが、上方の茶屋には意地がある。

 芸は売れどもけして身は売らない。ただ、酒を飲ませ三味線や琵琶を聴かせ、踊る娘を見せるばかりだ。

 古文という古くさい名の女が切り盛りするこの九十九亭もそんな茶屋であった。

「だからお線を口説きもしねえ、無体な真似をしたこともねえ。俺はただ、こうして、二日酔いの朝に介抱してもらいたいだけ……」

 お線の冷たい手をかき抱き、総十郎は囁くようにいう。

「まったく、二代目は。ここが吉原なら、叩き出されてるところですよ」

「二代目っていうなよ。俺の親父のあとは、江戸の妹婿が継ぐ予定だ。俺は上方にとばされた身よ」

 総十郎は、江戸の米問屋の二代目である。

 元は大坂は堂島の川沿いから身を起こした家であるという。大坂に生まれ落ちた総十郎の親父様は、一身江戸に出て立派な米問屋となった。

 それに比べて、総十郎のやる気の無さは子供の頃からの癖だ。まるで勘当のように大坂へ飛ばされたのはほんの一月前の話。大坂にある店を切り盛りしろ、というのである。

「江戸からとばされてやる気もでねえ。どうせ俺はここで身も出せず死んで行くだけ。おやじ殿も、妹も、妹婿もみぃんな、そう思ってるさ」

 総十郎は商売の金を色と酒と遊びに注いだ。今ではこんなに立派などら息子と成り果てた。

「そんなこと言いますけどね。二代目。江戸で売るものは、全部ここから運び出してるんですよ。水流の根っこを任されてるんですから、胸を張っておおきなさい」

 古文は、まるで困った息子をなだめるように笑い、総十郎の膝にどてらをかけた。どてらの上から、お線のたおやかな手が優しく撫でさする。

「でもいつかは江戸に、お戻りになりはるの?」

「いや俺は不肖の息子だよ」

 総十郎の目に見えるのは、古びた茶屋の屋根と、天女のように美しい女。

 耳に聞こえるのは心地のいい雨音と、どこかの部屋から漏れる琵琶の音。茶屋の娘たちもこの騒ぎに目を覚まし、寝ぼけながら仕事の支度などをしているのだろう。 

 そんな中で、一人酔いぐれた自身を思い、総十郎はため息をかみ殺す。

「いいんだ。俺はどうせ、この上方で骨を埋めるのだ」

 江戸でも女遊びはさんざんにした。

 そのせいか、大坂にとばされた時、最初に足を運んだのは花街だ。

 しかし慣れない上方言葉に辟易し、江戸の女が営むこの茶屋に足を運ぶようになった。

「ほんに、あほうな、若旦はん……」

 お線の言葉は優しく耳になじむ。江戸を求めてきた花街で、一番気に入ったのは上方言葉のこの娘だ。通い詰めて数ヶ月も経つが、口も吸わない健気な愛である。

「俺はなあ、お線」

 愛おしい娘の手を握り総十郎は笑う。

「本当は、大店の旦那になんぞ、なりたくなかったのだ。幼い頃から今でもずっと、俺は浄瑠璃の太夫となって高座で、三味線を叩いて……舞台を見入る人たちを、喜ばせて……」

 総十郎には夢があった。三味線弾きになりたかったのだ。それもただの三味線弾きではいけない。浄瑠璃の義太夫となりたかった。

 むろん、そんな夢など叶うはずもない。生まれが違う。育ちが違う。どれほど習ったところで、平々凡々。所詮は小金持ちの遊びの音だ、と陰口を叩かれる。

 あげく三味線に傾倒し過ぎたせいで商売にまで支障を来し始めた。そして結局、三味線は父に燃やされバチは捨てられた。

 当世、浄瑠璃といえば上方が有名だ。若い時分の総十郎であれば大坂行きを喜んだことだろう。しかし、今となっては叶わぬ夢だ。叶わぬ夢を見せつけられた総十郎は、ますます酒と女に逃げた。

 こうして、女の膝の上で眠るのも、慣れてしまった。

「ほんに、あほうな人……」

 ふう、と眠りに入る頃、お線のたおやかな声だけが心地よい。



「本当に、なんと阿呆なお人でしょ」

 どれくらい眠ったのか。総十郎は、無粋な声にたたき起こされた。

「……おお。吉之助そこにいたのか。朝からご苦労なことだ」

 痛む頭とむかむかとする腹をなでさすり起きあがれば、総十郎の足下にちょこんと正座でかしこまる男が一人。

 周囲を見渡せば、古文はすでにいない。扉の向こうからお線やほかの娘たちが心配そうにこちらをみるばかり。

「もう昼でっせ」

 目の前の男……吉之助は細い目をかっと開けて、戸を開く。きしむ音とともに差し込んだのは、まぶしい日差しだ。雨はすっかり止んで、梅雨の時期には珍しい青空がでている。

 庭先の紫陽花に水の滴が散っているのが目にもまぶしい。

「明け方に眠ったものだからな」

「先の大旦那はんが歯ぁくいしばって、耐えて耐えて作り上げた大店に、若旦はんが泥塗って……」

 吉之助は小さな拳を固く握りしめて肩をふるわせる。もう、七十にでもなるだろうか。小さくしわしわのこの爺さんは、総十郎の祖父の代から上方で支え続けた忠実な番頭であった。

「ああ。ばからしい、酔いもさめた」

「若旦はん。帰りますのん?」

「帰る。またくる」

 吉之助の泣き声をふりはらって総十郎は立ち上がった。まだ頭の芯に酒が残っているのか、立ち上がると足がふらつく。それを案じるように見つめるお線に、総十郎は優しく声をかけた。

「なあお線。三味線でも弾いてくれ。俺が帰る背中にむけて、しとりしとりと弾いてくれ」

 はらり。と、音が泣いた。

 お線の手の中にある三味線が、まるで泣くように音を奏でる。それは雨の音に似ている。その音を背に受けて総十郎は外へ出た。

 遣らずの雨などよりも、この音のほうがずっと総十郎の心を惑わすのである。



「つまらん」

 店の帳面をみるのは、嫌いではない。数字をみるのも、作業現場を見に行くのも、実のところ嫌いではない。

「おもしろくない」

 しかし、真面目に仕事をするのが嫌なのである。こんな年になってまで恥ずかしいほどの、親父殿への反発心である。

「おもしろうなくても、見てもらわな困ります」

 机に置いた帳面を投げ飛ばす総十郎をたしなめるのは吉之助である。彼はまるで目付のようにぴったりと総十郎に寄り添って鋭く目を光らせていた。

 無理矢理浴びせられた湯のせいで、酒はすっかり抜けた。しかし、もう三日も店に閉じこめられて帳面の勉強だ。

「どうせお前も、俺のことを馬鹿な二代目とそう思っているのだろう。大坂の店のやつらも、江戸のやつらも、みなみなそう思っているんだろう」

「そないなこと……あらしません」

 吉之助は困ったように顔をそらす。それは、嘘をつくときのこの爺さんの癖である。食えない爺だが、顔にだけは素直にでるのだ。

「親の遺産を食いつぶす、馬鹿な二代目。能もなく、遊びばかりに傾倒して……」

「若旦那」

 吉之助が番台を立った。

「私のとと様は、歌舞伎役者に傾倒しましたんや」

 そして彼は、総十郎の手をきつくつかむ。それは番頭としての口調ではない。まるで父が息子をみるような、そんな口調だ。

「それで母も姉も、ずいぶん苦労させられました。何もでけへん子供の私を奉公にと、拾うてくれたんは、若旦那のおじいさまです」

「吉之助」

「芸の道、書の道、絵の道、色の道。どれもよろしおす。どれも楽しんだらよろしい。ただ、ほどほどにしなさんせ」

 そして彼は立ち上がり、のれんを軽くめくる。目前の道に、さあと白い靄があがっていた。

「今日は現場に行ってもらおう思っとったのですが」

 ちょうど、雨が降り出したのである。

 吉之助はため息混じりに懐から紙入れをだす。そしていくばくかの金を、総十郎に握らせた。

「雨ですわ。帳面も丁度終わりですし」

「吉之助?」

 花街へ、行ってもいい。と、吉之助が珍しくもそう言った。ただし夜がくれるまでに戻ること。

 と、彼は総十郎の背を押したのである。


 

 三日ぶりに訪れた花街は、酷い雨煙であった。

 誰も彼もがあわてたように道を走り、やり手の婆はそんな男たちを捕まえようと躍起になる。格子状の見世からは、きらびやかな腕が幾本も延び、雨の中を踊っている。

 しかしそんな遊女の誘いをすべて抜けて、総十郎が駆けたのは九十九亭。浅黄色ののれんをくぐれば、雨の音は一気に止んだ。

 ……店へ一歩入るなり、総十郎の目の前に花が舞ったのである。

 薄紫の美しい藤の花。天井より垂れ下がり、甘い香りをまき散らす。

 薄桃色の愛らしい小さな花びら。それは桜だ。大きな枝振りの桜が今や盛りと咲き誇る。

「……これは……」

 藤も桜も、とうに季節は過ぎ去った。目を丸めて手を伸ばせば、それは花ではない。絹の感触である。

「……着物か」

 なぜ本物の花に見えたのか。まだ酔いが残っているのだろうか。目を擦り、目をこらす。やはりそこにあるのは、絹の上等な着物であった。

「おや、こんな昼から珍しい、若旦那」

 布をひょいっとめくって現れたのは、古文である。

 着物の袖が揺らめくと、それはまるで風に揺れる花のようだ。総十郎は笑って袖を撫でた。古いが、質のいい織りだ。

「花かと思ったぞ」

「今日届いたばかりの子でね。可哀想に、雨に濡れていたので乾かしてあげていたのですよ」

「子?」

 古文は総十郎の言葉には答えず、いつもの座席に腰を下ろす。それは古い本に囲まれた小さな座布団の上。

 何冊もの本が彼女の手元に堆く積まれている。

「また本が増えたんじゃねえのかい、古文よ」

「毎日増えて行く一方で、いつか底が抜けるじゃないかと、あたしゃ心配してますよ。そんなことより二代目」

 まるで秘密の話をするように、古文は薄く笑う。彼女が机の下からそうっと取り出したのは、紫縮緬の布に包まれた三味線であった。

「いい三味線が京都から届きましてねえ」

「お前もずいぶんと食えない女主人だな、古文」

 糸が解かれ中から白木が顔を見せた時、総十郎は思わず喉をならした。

 酒も色も嗜むが、それよりも総十郎の心を揺るがすのは三味線である。古い三味線もよい。新しく、木が香るほどの三味線もよい。ふれるだけで心が落ち着く。弾いていなければ気が休まらない。

 震えるように受け取ったそれは、ほどよく軽くはじくと高い音を響かせた。

「いい三味線だね」

「なじみの客が、誰ぞ娘にでもやってくれ。と分けてくれましてね。娘に弾かせる前に、二代目がお弾きになるかとそう思いまして」

「本当に、食えない女だよ、お前は」

「まあ、酷い」

「上方で芸者をまとめておきながら、江戸の言葉に江戸の香りだ。お前さん、若い頃はずいぶん江戸でかわいがられていたんじゃないのかい」

「女の過去を探るのはおよしなさい」

 古文は袖で口を押さえてくすくすと笑う。実際、この女のことを総十郎はなにも知らないのである。

 大坂新地の片隅で、芸者をまとめる女主人。大坂に茶屋を作っておきながら、その体には江戸の香りが染み着いている。

 彼女は本をさすりながら総十郎の言葉をかわす。

「私はただの本好きの枯れた女。可愛そうな女がいると、どうも放っておけない性質でしてね」

 この茶屋で働く娘たちはみな、訳ありなのだと噂にきいた。けして色は売らせない。無体な客があればこの古文が追い出してしまう。

 娘たちは皆、この主を慕っている……。

 まるで穏やかな巣のように、この店には心地のいい空気が流れている。それに惹かれて総十郎もこの店に足を運ぶのである。

「……俺も、そんな風に生きたかったとおもうよ」

「おまんまの心配も、女の心配もないのは幸福でしょうよ」

「と、人はいうがな」

「若旦はん」

 声に気がついたのだろう。気がつけば、扉の向こうにお線がかしこまり、首を傾げている。今日もまた艶やかな赤の着物。彼女は、赤の着物ばかりを好んでまとう。

「お線。今日、仕事はないのか」

「今日は何もあらしまへん。若旦はんと、三味線遊びしましょ」

「よしよし。お前の部屋にいこう。三味線を弾こう。俺も夜までは遊べるぜ」

 にこりと、ほほえむ笑顔は仙女のようだ。だから総十郎はさっそく、古文の三味線を手に彼女のもとへと駆け寄った。



 ぽん。と最後の一節をたたき終わるなり、総十郎の顔が曇る。

 先ほど古文よりいただいた、白木の三味線である。確かにいい音だ。たたきやすく、手になじみもいい。

 しかしため息をつき、彼はそれをお線にそっと手渡した。

「飽いた。この三味線はお前にやる」

 今まで弾いていた三味線をおろすと、お線はあわてて白木の三味線を袖で受ける。

 そして哀れむように、そうっと撫でた。

「若旦はんは、すぐそうやって、飽いてまう」

「俺の愛した三味線は、一本だけだよ」

 総十郎はそういって、膝を崩し酒をあおった。ぬるく燗にした酒が、歌ったばかりの喉に心地よく染み渡る。

 そして、掌を強く結ぶ。

 総十郎の愛した三味線はただ、一本きりだ。

「まだ……その三味線を、想うてますのん」

「ああ」

 何本三味線を弾こうとも、どれだけいい三味線を買おうとも、かつて愛した三味線の感触も音も忘れることができない。

「大昔……おやじ殿に燃やされた、あの赤い三味線。あれだけは、あの三味線だけは」

 それはまだ総十郎が若い時代。三味線に傾倒しはじめたころ、好んで弾いた赤い三味線であった。

 確か、京都の古い三味線であったはずだ。

 ひどく古いものなので、幾度も修繕にだし、時には自ら糸を整え、毎日のように磨き、愛し、そして幾度も弾いた。

 しかし、総十郎のあまりの傾倒っぷりを苦々しく思ったか。ある日、厳格な父の手によってその三味線は燃やされた。

 広い庭先で、まるで晒し者のように火を付けられ、三味線がそのままの形で燃えていく。

 目の前で燃えるそれを助けることもできたはずだ。しかし、火の勢いと父の怒りに怯え、総十郎は三味線が燃えるのを見ていることしかできなかった。

 総十郎が色と欲の道にずぶずぶと落ちていったのは、その事件のあとからである。

「お線、なぜお前が泣きそうになっている」

 気がつけば目の前のお線が泣きそうに唇をゆがめ、赤い袖でそうっと目尻を拭っていた。ものに感じやすい娘である。苦笑してぽん、と撫でれば彼女は涙をぬぐって取り繕うように声をあげた。

「まあ、お藤も桜も。覗き見なんて不作法や」

 ふと振り返れば、扉の向こうから小さな陰が二人、こちらをのぞいている。

 それは桜柄の着物と藤の着物をまとった幼い娘たちなのである。まだ十歳ほどか。幼い頬をぷくりと膨らませて、おどおどと部屋の中をのぞき込んでいる。

 先ほどの着物は、この子たちのものであったのだ。純真な黒い瞳に、総十郎の心は穏やかになった。

「かまわない、かまわない。なんだこんな幼い時から、芸子のまねか」

「まだ目覚めたばかりで右も左もようわからない、子たちです」

「よしよし、では俺が三味線を教えてやろう。おいで、おいで。俺の膝の上で一緒に弾こうなあ」

 手招くとおそるおそる二人は総十郎の元へ。人見知りなのか、怯える様子も愛らしい。同時に、このような年の頃から芸者の道を歩む彼女らに、総十郎は哀れみと嫉妬の念を抱いてしまうのである。

「若旦那!」

 二人を膝に乗せ、三味線のままごとなどをして、さてどれくらい経っただろうか。気がつけば、玄関先からにぎやかな音が鳴り響き、その足音はお線の部屋の前でとまった。

「若旦那!」

 息切れしながら駆け込んできたのは吉之助である。その古漬けのような顔を見て、総十郎は眉を寄せる。

「なんだ吉之助。日が暮れるまでは遊んでいいと……」

「大変や。江戸から……さっき、江戸から使いが……親父様が……大旦那はんが、危篤やいうて」

 吉之助は手に文を握ったまま、ふるふると震えている。お線の顔色がさっとかわり、娘たち二人もつられて泣きそうな顔となる。

 しかし総十郎は平然と、その文を取り上げた、

 投げるように開いてみれば、文字は雨と涙ににじんでよく見えぬ。危篤、急げと書いてあるようにも見える。

「死んだか」

 ぽんと文を投げ捨てれば、吉之助が唖然と顔を上げた。

「縁起でも無い、まだ危篤やいうて……」

「どうせ今から江戸へ行ったところで、間に合わん。それに、雨だ」

 顔を上げれば庭に降るのは雨。また降り始めたのである。

 どうどうと、音がうるさい。これでは三日はやまないだろう。

 必死に駆けたところで、どうせ間に合わない。文に書かれた文字は、震えていたではないか。

「ほんに……ほんに、こないな、親不孝もんの……」

 吉之助は詰まる言葉で叫び、床に落ちた文をかき抱くなり庭へと飛び降りた。今から江戸に駆けていくつもりか。その背に、総十郎は濁った目線を向ける。

「……若旦はん」

「何もいうな。お線」

 すがるお線の白い手を優しく撫でて総十郎は庭をみる。

「三味線を弾いてくれ。うんと、明るい音がいい」

 雨はやむ気配もない。



 親父が死んだと連絡がきたのは、それからしばらく経ってからである。手紙によると、父が死んだのは危篤の知らせを受けた日の翌日のことである。

 やはりどう走ったところで間に合うはずもなかったのだ。と総十郎は納得する。しかし、どこかむなしい。

 手紙の文字は怒っている。吉之助の手によるものだろう。しかし、手紙とともに届いたのは、巨大な桐の箱であった。中を覗けば、三味線が一本、そこにある。

 親父殿の遺言だ。と、但し書きがあった。

 それを見て総十郎は珍しくも動揺した。

 それは、昔愛した赤い三味線。それによく似た赤漆の一本である。

「弔いだ。弾いて遣ろう」

 お線の前にそれを置けば、お線はまるで恨むように総十郎を見た。無情な息子だとでも、思ったのかもしれない。しかし総十郎はかまわずにそれを抱き上げる。

「お線はそこで聞いていてくれ」

 ぽつぽつ叩けば、それはよく響く。外は相変わらずの雨。

 大坂の店も当分は商売を止めて奉公人も皆、喪に服す。総十郎の着物も、黒一色。どうにもやるせなく、総十郎は三日前から店を抜け出しお線の元にとどまっていた。

 しかし、酒の代わりに飲むのは白湯だ。酔いもしないままに弾く三味線は、重く悲しくそして切ない。 

 弾き終わり、総十郎はその赤の三味線をそっと撫でる。ふいに、様々なことが思い出された。父との確執、その以前。

 ……そうだ、三味線の弾きかたを総十郎に教えたのは、父であった。

 赤い三味線を見つけてきたのも父である。昔なじみの男から受け取ったと聞いた。潰れた寺の奥で埃を被っていた三味線だ。どうせ直せやしまい。と、父は気紛れに総十郎へその三味線を与えた。

 無我夢中になって直した息子を、父が褒めた。それは初めての褒め言葉である。

 古い物を大事にするのは商売人の、何よりの心意気。仕事ばかりではつまらない。色の酒も音楽も、遊べなければいい仕事はできない。父は、若い総十郎に語って聴かせたではないか。

「……親父殿」

 傾倒はするなよと、苦笑混じりに言ったその顔を今更ながらに思い出す。

 恨み辛みしかなかった父の、優しい笑顔を不思議と今となって思い出す。

 あの厳格な顔から漏れるほほえみを、もう二度とみることなどできないのだ。

「俺は、馬鹿だなあ……」

 総十郎の目に涙が浮かんだ。胸が痛んだ。なんと、馬鹿な息子だろうか。

「三味線、飽きましたのん?」

「いや、これは持って帰ろう」

「えっ」

「親父の形見だ。あんな親父でも俺の三味線を燃やしたことを悔いてくれたのだなあ」

 包まれていた赤の絹に、総十郎はそうっと包みなおす。

「そうおもえば、いとおしくもなる」

 明日には総十郎も江戸に立つ。父を見送りに江戸へ向かう。おそらく罵倒もされるだろう、あきれられもするだろう。勘当をされるかもしれない。

「それでもこの三味線の音を、親父殿に聴かせてやりたい」

「その三味線は大事にされるんやなあ……」

「お線?」

 自嘲混じりにそう言えば、ふとお線の様子が変わった。

 先ほどまで、彼女は不機嫌そうに座っているだけであった。

 相変わらず赤の着物は変わらないが、今日の赤には黒みがまじる。父の喪に併せたような夕日のような、色であった。

 しかしその姿が、徐々に変わる。赤黒い着物から、漏れた腕がまるで老婆のようにしわくれて、やがてそれは一本の細い木となった。

 愛らしい顔はゆがみ、ゆがみ、ゆがみ、それは般若の顔となる。

「どの三味線も若旦はんのお気に召さんかったのに、どの子もみな、すててしもうたのに、その三味線だけは、大事にされるんやなあ……」

 赤い漆を落としたような、怪しく輝く般若の顔だ。 

「燃やされたあの三味線だけを、愛してたのと、違いますの……?」

 目のくぼみは黒くそまり、その奥に光はない。

 ずるりと立ち上がった体は、動けば三味線の音がなる。

「そうか……そうか」

 腰が抜けたように床に崩れた総十郎だが、お線の姿をみてはたと気がつく。

 いまやお線は薄暗い部屋の中に立ち上がり、まるで幽玄を舞うように袖を広げていた。

 梅雨の風に、伽羅の香が漂う。それは、死者を弔う香りである。

「お前は……」

「総十郎様、総十郎様。お慕いしてました。燃やされるわてを、助けてくれるのをお待ちしてました」 

 動けばなるその音は、かつて総十郎が愛した三味線の音。

「燃やされた身は仕方ありまへん。ただ、どの三味線も総十郎様は愛されへん。総十郎様の三味線は、わてやないと、あかんのや。せやから、我慢もできたものを」

 女の後ろに、燃えるような炎が見える。焦げるような香りも漂う。彼女は、赤の三味線であった。燃やされてなお恨みが溶けず、人となり総十郎を慕って来たのか。

 総十郎は唖然とお線を眺めたまま、彼女の手や膝の心地よさを思い出す。そうだ、あの艶やかあの三味線と同じであった。

 愛らしい声は、三味線と同じ音であった。

「その三味線は、好きにならはるん?」

「お線」

 その手が、総十郎の首を握る。枝のような細い木が幾重にも総十郎の首にからみつく。喉が鳴り、息が詰まる。しかし、総十郎は震える手で床に置いたままの三味線を抱き上げた。

「ちょうどよい。俺を殺しながら、般若の顔で舞ってくれ。三味線の……太夫は俺がつとめよう」

 首を絞められたまま、総十郎は三味線をひとつ、叩いた。

「三味線を弾きながら三味線に殺されるなぞ、なんと遊びの冥利に尽きることだ」

 首がひとつしまれば、お線がひとつ舞う。そのつど、三味線の音が総十郎の手元とお線の体から鳴る。

「思えば俺はなあ、別に商売が嫌いなわけじゃあなかった」

 雨の日に叩く三味線は、しっとりと静かな方がいい。まるで弔いの音だ。江戸の父と自分と、お線に捧げる音だ。

「あの、父の、商売人の目が嫌で、嫌で、嫌で」

「……」

「反発して、大事な三味線を燃やされて、それさえ助け出すこともできずに」

 総十郎は三味線の手を止めて、お線の手を……いまやささくれた木となったその手を撫でる。

「熱かったろう、痛かったろう、俺が助けるのを、炎の中から、待っていただろうに」

 ふと、その手がゆるんだ。般若の顔がまるで困惑するように、揺れている。 

「すまん、すまん、なあお線」

 目から赤い液体が、はたはたと滑りおちた。

 彼女は総十郎の首から手を離し、その場に崩れる。まるで顔を隠すように床に突っ伏して、そして肩をふるわせた。 

「……殺さないのか」

「よぉ、殺せませんのや」

 その身はすでに般若のそれだ。しかし声は、かつてのお線のものに戻った。

 幼い子が泣くように、ただうつ伏せてお線は泣き叫ぶ。

「若旦はんは、あのときも、同じ目で見てはった」

「お線」

「わての、燃えるのを見てはった」

 ゆっくりと顔が上がる。般若の顔ではない。それは、お線の顔だ。たおやかな、優しい頬と太い眉。

「狡いお人や。あんさんのその目は、泣きそうな時の目や。わてが燃える時に、見てた目や。あんさんの親父さんが死んだときの目や」

 お線は泣き濡れた黒い瞳で、ほほえんだ。

「阿呆な、若旦はん」

 そしてお線は総十郎の手を優しく握ると、そのままその場に崩れ落ちる。

「商売、よぉせな、あきまへんえ」

「お線!」

 崩れたお線を抱き寄せれば、とたん、その体がぐにゃりとゆがんだ。体がかき消え、代わりにそこにあったのは黒炭と化した一本の三味線である。

 それが三味線であるなど、総十郎以外にわかるものなどいなかっただろう。それほどに酷く焦げ、糸は途切れ美しかった赤漆のかけらもない。

 しかし総十郎はかまわず抱きしめそして泣いた。

「お線」

 抱きしめた先から、三味線はぱきりと折れる。あわてて押さえてももう遅い。はら、はら、はら、と音をたててその身は崩れ落ちる。

 総十郎の手の中に、ただ炭のようなものだけが残された。

「……古文」

 呆然と、総十郎はつぶやく。気がつけば、ふすまの向こうに古文が立っている。

 その横には、藤と桜の娘たち。少女たちは、感情のない目で、お線の慣れの果てを見つめていた。

「古文、古文、古文」

「とうとう、戻ってしまいましたか」

 しかし古文は顔色一つ変えず、部屋に進んでお線の着物を撫でた。赤い着物は、いまは灰にまみれている。

 その灰をかき集め、かき抱き、総十郎はわっと泣いた。

「壊れてしまった、俺の、可愛い、お線が」

「壊れるとは聞き捨てならない。それは成仏です。おや、お藤も桜もうらやましいかい」

 古文は二人の娘をそうっと撫でて、笑う。

 そして総十郎の背を叩いた。

「ここの娘は皆皆揃って不遇の生き様。人に恨み辛みを抱いて生きて、気付けば皆皆、神になる」

 しゃんとなさい。と、古文は幾度も総十郎の背を叩く。総十郎はいつか、背を正して古文の前に向かい合っていた。

「物でも、長く生きれば神になります」

「俺を、恨んでいた。殺そうと、していた。殺されてもよかったのだ」

 部屋に残された灰をみて、総十郎は呆然とつぶやく。古文は哀れむように、外に目をやった。

「哀れなことです。人を恨んで憎んでこうして仇に会えたところで……」

 雨は、まだ降る。花街に降る雨は、しっとりと霧雨のようだ。張り付いて、離れない。

 お線の情の深さも、そのようなものであった。恨みなど、最後の最後までみせはしなかった。いつでも総十郎の身を案じ、そのそばに寄り添ってくれたではないか。

「だから私は、この子らの壊れることを」

 大粒の雨が、屋根から落ちて廊下に跳ねた。

「成仏といいます」

「この灰を、貰っていいか」

 総十郎は幾分か湿った灰を震える手で、抱えあげた。

 床に置いたままとなっている、父から届いた三味線にその灰を幾度も塗りつけた。赤漆の色が墨色に染まる。すりつけてから拭えば、いつかの三味線と同じ色となった。

「阿呆な二代目の目つきが変わった」

「からかうな」

 古文の声に総十郎は自身の頬を叩く。急に、頭の中に風が吹き抜けた。

 お線の灰をまとったその三味線に、総十郎は優しく話しかける。

「お線、なあ。急いで江戸へ行こう。おやじ殿の前で、弾いて、それから」

「それから?」

 お線の着物で三味線をまきつけて、総十郎は立ち上がる。

 喪服の黒に、赤の三味線。梅雨の薄曇りに、冗談のようによく映える。

「商売人がすることは、一つだ」

 果たして親族や店の人間が総十郎を受け入れるかどうか、それは彼自身わからない。ただ、謝って、謝って、そして今度こそ心を入れ替えるしか道はない。それが、お線の残した最期の遺言だからである。

 ふと、総十郎は古文を振り返る。

 彼女はまだ、薄暗い部屋の中に座り込んでいる。彼女もまた、人間ではないのだろう。しかし、不思議と恐ろしさはなかった。

「お前はどうするんだ、古文」

「茶屋の女主人がすることも、一つですよ。一人でも多く……成仏を」

「因果なことだ」

「お互いに……あ」

 古文は白い顔を上げ、ほほえんだ。

「旦那。雨がやみました。三日ぶりの晴れですよ」

 先ほどまでしとしとと大地を濡らしていた雨がすっとあがった。薄い雲の合間から、かすかな青空も見える。

「遣らずの雨が、やっとあがったな」

 引き留めるものも、もういない。

 雨の溜まりを蹴り上げて、いざ、総十郎は曾根崎の道を駆け抜ける。

 背に負うたお線が、うれしげにぽろりと音をこぼした。

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