僕と彼女の1か月
~序章~ その猫をクロエと呼んでいる
風を切る音がする。風景がどんどん後方へ逃げていく。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
僕は自分の心臓にたくさんの空気を送り込んだ。
僕は言うまでもなく全速力で走っていた。
走ることはきっと生きる喜び。
これでもかっていうくらいの生を感じて僕は今走っている。
……まぁ、ものの30メートルほどだけど。
僕は17歳の、人並みの学力と、人並みよりちょっと頼りない体力。
そして170センチメートルほどの普通の身長に、サラリーマンの父に、専業主婦の母。
所謂、平平凡凡で、何一つやりたいことも見つけらない、
ただの帰宅部な平凡な高校生である。
青春も賭けてない僕の走りなど、きっと陸上部が魅せるあの輝かしい青春の汗のアンモニア臭にも及ばない……
――「ねぇ」
そんな何でもない僕がこうやって、本当に少しの間だけでも全速力で走っているのには理由がある。
それは、ある猫を追っているのである。
――「ねぇってば!」
そいつの名は『クロエ』。
ちまっこくって可愛い。
それこそ平平凡凡な黒猫である。
ある一点を除いては……
――「千太君!!」
そいつの他の黒猫どもを圧倒する特異な一点を紹介する前に僕はある女の子を紹介しないと行けないと思う。
ずっと僕に執拗に語り掛けてくる、女の子のことを。
全速力で駆けていた僕に簡単に追いついて、並走しながらずっと話かけていた女の子が、
息を切らして立ち止まった僕に、覗き込むようにしてくるので、精一杯息を戻しながら言った。
「はぁ、はぁ……ふぅ……
――……水瀬、僕は今、君の好奇心が求めているクロエを全力で追いかけていた。
そして全力の命の瞬きの末に、こうやって膝に手を当て酸素を求めている。
それならば君のかける言葉は、
「ねぇ!」とか、なんかそんな質素で労りのない言葉では無くて、
「大丈夫?」とか、
「私のためにそこまでしてくれてありがとう!」とか、そんなライトノベルのヒロインが主人公に投げかけてくれるような優しい言葉であっていいと僕は思うのだけど」
「たった30メートルぐらい走ったくらいで優しい言葉なんて出て来ないよ!
せいぜい、せめて高校男子なら100メートルくらいは頑張りなさいよ!くらいかな!」
水瀬はそう言いながらケタケタと笑った。
黒い背中まで伸びたキューティクル全開のサラサラストレートが、女子高生らしい健康的な体と共に揺れていた。
そう。
彼女は水瀬という名の、僕と同じ高校で、同じクラスで隣の席の女子である。
スタイルもよく、可愛くて優しくて、
「僕のクラスの、僕のために毎日おいしいみそ汁を作ってくださいって言いたくなる可愛い女子ランキング」をするならきっとダントツで一位になるような女の子だ。
一年生の時はきっと彼女は僕のことを知らなかっただろうから、クラスが一緒になって、彼女に僕の存在が認識されてからちょうど1か月位。
こんな風にクロエを探しながら一緒に下校するようになってからはちょうど二週間ほど経っている。
僕が、「僕のクラスの僕のために毎日おいしいみそ汁を作ってくださいって言いたくなる可愛い女子ランキング」をするならきっとダントツで一位になるようなぐらいの女の子と、こうやって一緒に下校するまでになったきっかけは本当に些細なことだった。
たまたま帰る方向が同じで、帰宅部の僕が、同じように暇を持て余す連中と、ウダウダしてからの下校時間と、彼女が部活を休み歯医者に行くために、部室から帰路に向かう時間が重なったこと。
そしてなによりたまたま、本当にたまたまかはわからないけど、そこに『クロエ』と彼女が名付けた黒猫が通り過ぎたことによるのだ。
「ほら!千太君が肩で息をしている間にクロエはあっちの角を曲がっちゃったよ!」
そう言いながら彼女の左手が角の左の道を指していた。
「クロエってば本当にすばしっこくて警戒心が強いよね。千太君が、見つけて走りだす前から、もう全速力で逃げていたもの」
君と違って死ぬもの狂いで何にも考えず、全速力で走っていただけの僕には気づかなかった意見をどうもありがとう。
そんな皮肉を心の中で思いながら。
「……そうだな、水瀬の言う通り、『クロエ』は賢い猫だ。
それに、毎日、姿だけは必ず現して、同じ方向に向かって行くのに、なぜか捕まえたり、写メが撮れる程には近づかせない距離を保っている。
なんかあいつ僕達に何か訴えようとしているんじゃないかな」
僕のこれまでのクロエとの付き合いで思うことを述べてみた。
「うん、そう思う。
私達、もうこれで二週間位、毎日一緒に下校しているけれど、必ずクロエの姿は見ている……
そして追っかけているうちに見失う。
でも毎回クロエの現れる場所は見失った場所から……
あの子は私たちをどこかに連れていきたいのかしら」
これは、ある一点を除いて、平平凡凡な黒猫に対する彼女の考え。
「わからないけど……
でも、なんだか分からないあいつを追っかける、なんだかわからないこの日々を僕はとっても面白くて有意義に感じているよ」
これは僕の正直な気持ち。
なにせ、水瀬っていう、クラスでも一番くらいに可愛い女の子と下校できているんだから。
「でも水瀬は部活休んでまでクロエ探しに付き合わなくていいんだよ?
僕は帰宅部だし、暇な人間だから、奴の寝床くらい見つけてから水瀬に報告するっていう手もある」
これも僕のほんとの気持ち。
何にもない僕はいいとして、陸上部として頑張っていると思っている水瀬はもっと自分のやりたいことに打ち込むべきだと思う。
「確かに最近陸上部には行けてない……よね。
――でも私も君とこうやってクロエを探して歩き回っておうちに帰る日々が本当にとっても楽しいんだよ!
ほら、あの角を左に曲がっていったでしょ?
一緒に追いかけようよ!!」
これはきっと、彼女の正直な気持ち。
その「青春です!」というような輝きは僕の心の正直なところを明るみに出してしまいそうだ……
そう……彼女の青春の輝きと同じように、
僕達が追いかける、ある一点を除いてなんてことない普通の黒猫もまたとってもまぶしいのだ。
あいつは平平凡凡な黒猫である。
ただ一点、普通の黒猫と違うのは、その真っ黒な艶めかしい体躯で妖艶に揺れる尻尾を揺らめかせながら、その美しい体をまぶしいくらいに青白く発光させていることである。
僕達はこの黒猫を『クロエ』と呼んでいる。
この物語は、なんの取り留めもなくただの帰宅部の僕と…
陸上部のエースで、「僕のクラスの、僕のために毎日おいしいみそ汁を作ってくださいって言いたくなる可愛い女子ランキング」をするならきっとダントツで一位になるような女の子、水瀬の……
本来なら絶対交わることのない二人の……
平平凡凡ではない、発光する黒猫、
『クロエ』を追いかけていく物語である。




