そんな笑顔なんて見たくない
まただ。
優馬は口を引き結んだ。
「どうかしたのか?」
優馬の泥の中にぬるりと沈んでいくような気持ちなど露知らず、正樹はにっかりと笑った。大きく口を横に引いて、真っ白な歯が覗く豪快な笑い方。その口を掴んで、さらに横に引っ張りたくなるが、優馬はその気持ちをぐっとこらえた。
「ねぇ、僕はさ」
「あ、そういえば、この前みかん貰ったんだけど持ってくるわ」
勢いよく立ち上がり、台所へと向かってしまうその広い背中に優馬は舌打ちした。ほら、まただ。
正樹は、優馬が真面目な顔をして話を切り出そうとする度、こんなふうにごまかすのだ。だから、優馬はそんな風に雰囲気を作ることすらさせてもらえない。
みかんを両手に抱えて戻ってくる正樹に、優馬は正面切って、きっぱりと言った。
「ねぇ、僕だって君のことが好きなんだけど」
正樹は苦笑いを浮かべて首を左右に振った。
「……全部俺のせいにしていいから、忘れろよ」
ほらまたそうやって笑うから、何も言えなくなる。
もともと、正樹とはこんなぎくしゃくとした関係なんかじゃなかった。
優馬は正樹を隣の家の面倒見のいいお兄さんだと思って懐いていたし、正樹も優馬を可愛がっていた。だから、高校に上がっても優馬は正樹に構われに家にあげてもらったし、大学に行って他に楽しいことがあるであろうに、正樹は変わらず優馬の相手をしてくれた。
まるで自分の家のように部屋に上げてもらったし、しょっちゅう隣の家でご飯を食べていた。
「正樹君! 聞いてよ、今日数学の山根がさぁ……」
「あぁ、あの先生か……むちゃぶり多いからなぁ。何? 解けない問題でも出されたのか?」
「東大の受験問題なんか僕の頭でできる訳ないでしょ……!?」
「相変わらずそんなのやってるのかよ、あの先生」
面白そうに笑う正樹に、優馬は笑い事じゃないよ、と返した。同じ高校に通っていた正樹は時々いたずらっぽく目配せしながら過去問をくれたりして、優馬はしばしばそれに甘えていた。
そう、なんの変哲もないご近所のいいお兄さんだったのだ。その関係を変えたのは優馬ではない。他でもない正樹自身だった。
「……好き、なんだ」
「ん? 正樹君好きな人いたの?」
部活帰り、フラフラと路上を歩く彼に気づいた優馬はその肩を貸していた。正樹がそうして酒に酔って帰ってくるのは珍しいことだった。大学生ともなれば酒の席の一つや二つあるであろうに、頬を赤くして酒の匂いをさせているところを見たことはほとんどなかったし、ましてこんな風にふらふらとしているところを見たのは初めてだった。
「好きって、誰? サークルの子? 年上? 年下?」
「年下……」
酔った彼は、少し焦点の合わない目を彷徨わせながら言った。優馬はそれを聞いて更に追求をした。どんな性格なのか、どれくらい片思いしているのか。そんなことを延々聞いていくが、だんだんそれに対する返事が弱くなっていく。正樹の口が徐々に重くなっていく。
「優馬」
「ん? 何、正樹君」
「だから、優馬」
「だから、なんだって」
「好きなのは、優馬なの」
正樹は声を張り上げた。えっ、と優馬が声を上げるよりも先に、正樹は肩にかかった腕を振りほどいた。いつもその精悍な顔に笑顔を浮かべているのに、俯いたその顔は強張り、苦しそうに歪んでいる。
彼の言った衝撃の事実よりも、彼の真っ青になってしまった顔の方が気になって、優馬は彼が何を言っているのかということを正しく理解できなかった。もし正しく理解していたとしたら、こんな返事はしなかっただろう。
「酔ってるんじゃ、ないの? 大丈夫?」
正樹は、はっとした顔をして、目を伏せた。そしていつもよりだいぶぎこちない笑顔を浮かべて言った。
「慣れない冗談言っちまったな。悪い、送ってくれてありがとう。じゃあ」
正樹は優馬に背を向け、いつの間にかたどり着いていた家へと入っていった。
冷静になっている今の優馬ならわかる。彼は酔ってはいたが、冗談なんか言っていなかった。そんな冗談を言うような顔じゃなかった。だから本来ならその手を掴んでその場で話をすべきだったのだ。
翌朝、正樹は何事もなかったような顔をしながら笑っていた。優馬は胸を撫で下ろすどころか、息を飲んだ。その目元は、明らかに腫れていた。
それからずっと正樹との間はぎくしゃくしたまま。前と同じ関係には程遠かった。優馬はあの夜の正樹の顔が忘れられずにいる。いつから。いつから彼は優馬を好きなのか。どれだけの間抱え込んでいたのだろうか。そう考えれば考えるほど、沼に嵌っていく。
ぎこちなくなって、正樹のことを観察することが増えた。ふっと、視線を感じれば、彼が自分を見ていて、目が合うとすっとそらされる。あぁ、本当に彼は自分のことが好きなのだと理解する。熱っぽい視線。
不快に思っても仕方ないそれに、優馬はぎゅっと胸を締め付けられた。
「ねぇ、正樹君」
何度目かわからない呼びかけ。正樹は再び誤魔化すために立ち上がろうとしている。今日はその手首をぎゅっと掴み、阻む。うろたえた目。
「トイレに、行くだけだから」
平静を装った声。嘘だなんてこと簡単に分かった。優馬は、はっきりと言う。
「僕も、君のことが好きなんだけど」
正樹は困ったように眉を下げて、笑った。その唇が余計な言葉を紡ぐ前に、優馬は腕を引き、体勢を崩した正樹の唇に自分のそれを重ねた。目の前、ピントのぼけた彼の瞳が大きく見開かれているのが見えた。ただ唇を重ねただけのキス。唇を離して優馬は言った。
「全部僕のせいにしていいから、本当のこと言ってよ」
そんな嘘みたいな笑顔で笑われたら、何も言えなくなる。
「すき、だ」
くしゃりと正樹の顔が歪んだ。ぎこちない笑顔よりかは、その泣き顔の方が随分マシで、優馬はその背中を落ち着くまでさすっていた。