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4 道の途中

 結局、女として警戒するには及ばないと思われたのだろうか。

 と、思い至るのはずっと後になってからである。ああそうですね、と私は薄ぼんやりした返事をして店を出ると車に乗り込み、キーをまわしてエンジンが動き出したあたりで急に動悸がしてきた。


 失った青春をやりなおせるわけではない。未来に何かを期待しているわけでもない。それでも、自分の中の恋心が少しも過去になっていなかったことに気づいて、私は独り車中で赤面した顔を覆った。

 今の私を見られたくない。

 もし未明にとって私が少し特別な存在だったとしても、それは今のこんな情けない私ではないはずだ。

 胸の中が少しも静まらないまま、車を札幌方面に走らせていた。


 でも、どっちへ行こう。

 これから私は、どこに向かっていけばいいのだろう。

 未明とその子がいるという円山へか。

 そんな決心はとてもつかなかった。

 家には帰りたくない。母の待つあの家も故郷の町も、私にはただ息苦しいだけだ。

 もし帰れるものならばコタンへ。

 でも、それはかなわない夢だ。あそこにはもうくるみはいない。ヨハンセンもやってこない。その場所はもう私の記憶の中にしかないのだ。


 かつて私は未明に、空高く飛んで見せると誓った。 

 左手を一から鍛え上げて、木彫の世界の入り口に立てるまでに、どれだけの年月が必要だろう。そしてそこから、右手と引き換えに得たあのビジョンを作品化するために、どれほどの試行錯誤が必要なのだろう。

 無理なのかもしれない。一生かかったって届かないのかもしれない。

「こんなことなら」

 信号待ちの国道、いつまでも止まったままの車列の中で、私は左手をハンドルに叩きつけて叫び、そして弱々しくつぶやいた。

「あのとき死んでいればよかった」と。


 いのちの助かるはずのなかったあの氷雪の世界から、どうして私は帰ってきてしまったのか。あのときあの場所で、私はすべてを理解しすべてを手にしていたというのに、肝心の右手を置いて、どうしてこっちの世界に帰ってきてしまったのだろう。


――おまえの手仕事は、神々に気に入られたのだろう。

 コタンを発つ朝、エカシは私に言った。

――おまえの右手は今大いに働いて、カムイモシリの社や家々をとりどりに荘厳していることだろう。

 なんで右手だけ持ってったんですか。残りの部分はゴミカスだから捨ててったんですか。

――さあなあ、そんなことわしは知らんよ。

 どうやら思いつきで言ってみただけらしい。

 だが、ほんとうにコタンを離れるギリギリのときになって、エカシは言った。

――おまえの左手には、まだこちらで学ぶべきことが残っているのだろう。そうは思わんか。

 

 そのとおりだ。

 私が学ばずに来たことが山ほどあることは、明子さんとあの店が嫌になるほど教えてくれた。

 信号が変わって数分経って、前の車がのろのろと動き始める。私もアクセルを踏み込もうとしたとき、メーターパネルに違和感を覚えた。室内の異臭にも気づく。

 液温の表示が最高点に達したまま降りていかない。いつからだろう。まったく注意を払っていなかった。

 オイルが焦げている。そしてたぶん、それだけではない。

 すぐに国道を降りて、脇道の歩道に乗り上げて車を止めた。義手でなければボンネットに触ることさえできなかっただろう。開けた瞬間、爆発の勢いで水蒸気が噴出した。 


 エンジンの状態が見えるようになるまでしばらくかかったが、もう確かめるまでもなかった。エンジンそのものが焼け付いているのだ。

 古いオイルを使い続けた。そろそろ交換しなきゃ、そう思っていた矢先にあの事故があって、いろいろなことが次々に起こって、忘れてしまっていたのだ。

 ちゃんと気をつけていれば、こんな状態になる前に対処できたはずだった。

 きっと廃車になる。そう思うと泣けてきた。本当に涙があふれてきた。

 ボンネットを開けたままうずくまって、どれくらいの間そこで泣いていたのだろう。

「ああ、こいつはひどいな」

 やけにのんびりした声が背後から響いた。

 声の主は近づいてきて、無遠慮にエンジンルームを覗き込む。それが誰だか気づいて、私はちょっと息が止まった。

「泣いてたか」

 驚きもせず、やあ久しぶりとも言わず、出会ったことがあたりまえみたいな静かな声で、未明が言った。

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