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2 明子さん

 右には農業試験場、左には潰れた牧場跡と防風林。そんな国道を走っていると、探していた建物が見えてくる。

 昭和のころから建っているような、すすけた木造の二階家。広い駐車場があるわけでも、大きな看板が出ているわけでもないのだが、そこは、道内外の優れた地酒を扱う、通には名の知られた酒屋なのだった。

 コタンのあたりでは目にする機会もないような銘酒も、こうした店を巡れば容易に入手できる、というのはエカシが私に言ったことで、あの老人は、「ワシが飲みたい銘酒ベスト二〇」なるリストを作成して私に送りつけていたのだった。


 店内は薄暗かった。天井に届きそうなほど積み上げられている酒瓶、そのすべてが日本酒で、ワインやビールはおろか、焼酎さえ置いていない。その日本酒も久保田や八海山のような有名どころのものはほんの数本、申し訳程度に並んでいるばかりで、棚のほとんどを占めるのは、知る人ぞ知る、という地酒。私などは見たことも聞いたこともない名前の酒が、化粧箱もない五合瓶で、巨大な冷温保存庫にびっしりと詰め込まれている。

 店内はBGMもなく静かだったが、奥でかすかに話し声がした。料理人風の先客がカウンターを挟んで、店のおばさんと話しこんでいるのだ。二人ともぐい呑みを手に、料理のお品書きらしきものを間に置いてのぞきこんでいる。


「……菊なます、吹き合わせ、山の幸のてんぷら……ねえ。やっぱりそれが合うんじゃない? いや、香りは強すぎないほうがいいよ、このメニューに合わせるんだから。冷で酒だけ呑むとぱっとしない感じがするだろ、でも、ぬるかんにして揚げ物と一緒に出してみなよ、純米、吟醸って、高い酒ばかりが酒じゃないんだよ、本醸造だって使い方しだいでいいのはたくさんあるんだよ。……え、そう? あの人がいてもおなじこと言うと思うよ。そりゃ、うちとしては高い酒買ってくれたほうがいいけどさ。ま、いいよ、その話は夜。あの人が帰ってきたら電話させるからさ」

 工場で使うみたいな作業服に、屋号の入った紺の前掛けをつけたその人は、よく見るとおばさんという歳でもないようで、へたをすると私よりも若いかもしれない。最初、ちょっと太っているように見えたのだが、おなかのふくらみは贅肉とは別種のものだと気づいた。


「いらっしゃい、この店は初めて?」

 先客を見送ったあと、こちらを振り返るなりそう言い、ニカッと白い歯を見せて笑った。

 何故だろう。私は理由もなく身構えてしまった。

「……えっと、あの……」

 エカシから預かっていた「ワシが呑みたい銘酒ベスト二〇」のリストを財布からとりだす。

「珍しい地酒でも、ここなら扱ってるって聞いて……」

「それ、見せてもらっていい……ああ、惜しいね、この蔵元はちょっとまえに廃業しちゃっててね……でも、そこの杜氏だった人が他所に移って、またいい仕事してるんだ。下にまだあったんじゃないかな。すぐ持ってくるからさ、試してみてよ」

「あ、いや、私が飲むわけではなくてですね、私はあんまり日本酒の味とかわかんないし……」

「いいからいいから。なーんも気にせんでいいから」

 彼女はつかつかと地下室に下りていき、ほんとにすぐ出てきたと思ったら、しばらく店の奥に引っ込んでしまった。

「こんちはー。……あれ、二代目は」

 手持ちぶさたで待ってるうちに、外にトラックが止まって別のお客さんが来てしまった。

「あら、ニセコ酒造さん、よく来たね」

「おう、明子ちゃん、いやさ、ほれ、おととしの吟醸の保存しといたやつがいい感じの古酒になってさ、やっぱ二代目の言った通りだって、うちのもんで話してたのよ。あの人はまだ若いのに凄いよね、ゴルフは下手だけど……で、二代目は?」

「今日は一日じゅう市内回ってるよ。今日は、上の子のあれだからさ、丁度今頃は宮の森じゃないかな。それよかおじさんも飲んで行きなよ、南部杜氏の秋山さんの酒だよ、菊なますあるからさ」

「ああ、秋山さん? 前まで小樽にいた? あの人今どこにいんの……旭川! 男山酒造じゃなく? ……へえ、そんなとこがまだあるんだ。――ああ、いいねえ。秋山さんのは辛口でも柔らかいんだよね。ふわっとくるよねえ」


 残念ながら私は、酒や食べ物について語るような感受性も語彙も持ち合わせていない。二人の話を聞きながら漠然と、ああ、この菊の花の酢の物を菊なますというんだな、この器はいかにも秋っぽくていい選択だな、などと思いながら、黙ってちびちびと杯をはこんでいたにすぎない。酒のほうにも菊の花びらが散らしてあって、伝統的なものなのか、この女の人の創案なのか知らないが、趣があるしいい香りがする。

「どうだい、これなら、そのおじいさんも気に入ると思うよ」

 きらきらした目で見つめられて、ついうつむいてしまった。

 この人、若いころはすごく可愛かったに違いない。明るくて何でも出来て一生懸命で誰からも好かれて、何のコンプレックスもない青春だったろう。

 私はこういうタイプの女子が苦手だった。こっちの屈折した心象なんかおかまいなしに、ひたすらまっすぐに純粋な好意をぶつけてくるタイプ。なまじ悪意がないだけに私は拳を振り上げることも無視することもできず、太陽みたいなまっすぐな明るさが、卑屈な私の心を影へ影へと追いやるのだ。

  


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