花里
遊郭での物語なので、一応R15とさせて頂きました。ご了承ください。
東の空が未だ濃い藍色を残す朝まだき。はるかに見える山々の際が白々とかすみはじめるまでには、いま少しの間があった。廓は夜の賑わいが嘘のように、今はしっとりとした静寂に包まれている。
ふと、かすかな衣擦れの音を感じ、花里は深い眠りの底からそろりそろりと目覚めはじめた。
激しい閨事に疲れ果てた昨晩、そのまま崩れるように寝入ってしまった花里は、朧朧とする頭を軽く振って重い上体を起こした。つきりと痛むこめかみを押さえながら微音のする方を見れば、黒々とした闇の中にほの白い衣を身にまとった姿がぼんやりとうかんでいる。
「よう行かはるのどすか」
「ああ、起こしてしまったか、すまぬな」
慣れた手つきで身支度をしながら男は言った。
「新さん、うちに黙って行かはるつもりやったの?」
「昨夜は無理をさせた故、寝かせておいてやろうと思ってな」
不満そうな花里に悪びれもせず男は言う。しかしその笑顔はどこか物憂げで、なにごとか案じているように花里には思われた。
「嫌やわ」
男の言葉を、花里は軽く受け流す。それが戯れ言であるとわかるのは男が旅支度をしているからだった。昨夜はそんな素振りもなく、いずこかへ往くとも訊かされてはいなかったが、なんぞ火急の用でもできたのかと花里は漫然と思った。
しかし、どこか釈然としないものがある。閨での新三郎はいつになく荒々しく、かすかな違和感をおぼえた気がした。平素は穏やかであるはずの彼が執拗に花里を責め、意識をとばすまで許そうとはしなかった。
男女の睦みごとなどいまさら慣れたもので、遊女にとってはお務め以外の何ものでもない。色街に住むほとんどの女郎は、身請けされるかあるいはひたすら年季の明けるまで努めあげるしかない身の上である。花里もまた同様、貧しい片田舎に生まれ育ち、借金の肩に苦界へと身を落としてはや三年がたつ。看板とは言いがたいがそこそこに馴染みもでき、今ではいっぱしの部屋持ちであった。
無口で面白みにかける女と自分でもわかっているが、そんな地味な清楚さが洗いあげた木綿の生地のようだと言い好む男もいる。新三郎もそんな酔狂な男の一人なのかもしれない。某とかいうどこぞのお武家の三男坊で、派手に遊ぶことはないが金払いはきれいなほうだ。尤も、派手に金子をばら撒くような客ならば、もっと見栄えのする女をえらぶだろうと花里は思う。まれには彼の紀文のごときお大尽さまの座敷に呼ばれることもあるが、そんなときは太夫をはじめ一店を揚げての遊興であり、花里は所詮添えものの域を出ることはなかった。
春、鴨川の土手に立ちならぶ桜を観に、花里と同じ松美屋の振袖新造である八十菊に誘われて出かけたのは去年のこと。しかし、予想外のにぎわいに花里は人の波に酔ってしまい、並木から一本はずれて立っている桜にもたれて休んでいた。八十菊ら数人の仲間には、良くなったら一人で帰るからと言い、先に行ってもらったのであるが、女が一人でいるとろくなことがない。花里は、花見に来た酔っぱらいどもに絡まれてしまった。たまさか、そこを通りかかった新三郎が助けてくれたのが縁で、それから程なく彼が客として松美屋を訪ねたのがはじまりだった。
郷里は武州だという新三郎は、京の都には似つかわしくない朴訥で野暮ったい男だったが、その纏う空気は春の陽のようにやさしく、いつも花里を泣きたい気持ちにさせた。
「新さんに抱かれとると、うちは泣きたくなります」
今にも零れそうな涙を懸命にこらえて笑うと、バカだなと言ってはその腕であたたかく花里を包んでくれ、そのまま寄り添い眠った日々は千金の輝きのごとく幸せな夢のようだった。そうして二人が互いに想い合うようになったのは、ごく自然ななりゆきであったろう。
――郷里に帰るときが来たら、お前もいっしょに行こう。
いつか彼がそう語ったことがある。確たる約束など何もなかったが、花里は彼を信じ、はるかな未来を思い描いた。
このままなにも変わらないと信じたかった。二人で暮らせる日が待ち遠しく、年季の明ける日を指折り数えては来たる日の幸せに心躍らせていた日々。
だが今、新三郎は夜明けを待たずに行こうとしている。
花里は気づいていた。新三郎の着物に残る赤い跡に。
血の匂いが、した。
――新さん、行かねばならへんのどすか。うちを置いて。
喉元までこみ上げる言葉は、けっして口にだせはしない。
何も訊かない花里に、江戸へ行くと、ただそれだけ新三郎は告げた。
「なに、すぐに戻ってくるさ。案ずることはない」
「あい、わかりあんした」
そう言うほかに何ができるだろう。いつかこんな日が来ると己もわかっていたはずだ。たかが女郎、甘い夢など見たとて叶うはずもない。それを認めたくないがゆえに忘れたふりをしていたのだ。
江戸へ行けば、もはや新三郎は戻っては来ないだろう。京での一期一会など、季節が変われば憑き物が落ちたように忘れてしまうにちがいない。
まこと浮世はままならぬ。
ましてや女郎の身なれば。
――本当にそうだろうか。
否、新三郎はそんな男ではない。
一刻も早く京を出るべきであるのに、危険を承知でこうしてここへ来てくれたのは、彼の花里への何よりの証しにちがいなかった。
思えば新三郎のことは、郷里のこと以外何も知らない。なにゆえ武州から京都へ来たのか。どこに住み、なにをして朝夕を過ごしているのか。
きょうび、この町に忍び寄る穏やかならざる空気は、色街にいながらでも感じ取ることのできるほどなのに、安寧とはいえないこの時節に、理由もなくぶらりと立ち寄るはずはないだろう。
いったい、なぜ。
しかし、考えている余裕はもはやなかった。にわかに外が慌ただしくなったからである。
数人の足音に混じって何ごとか我鳴り立てる声がし、つぎつぎと置屋の戸板をたたく音が聞こえはじめた。
不吉な予感に、花里の胸が早鐘を打つ。嫌な汗が背を伝って流れおちた。
新三郎を振り返れば、遠くを見るように眼をすがめて刀の柄を握りしめている。かすかな月光に照らしだされたその顔は、能面のように青白く無表情で、花里が知っている新三郎ではないように思えた。
と、階下で「ご免」と乱暴に訪いを告げる声が響いた。とっさに花里は布団をめくり上げ、新三郎の手を引く。
大小を間に、二人で布団を顔までかぶって息を殺しながら抱き合うことしばし。やがて梯子段を登る足音が聞こえ、廊下に立ち並ぶ部屋部屋の前を逐一たしかめるようにしながら近づいてくる。
ついに足音は花里の部屋の前で止まった。
鼓動が胸をはげしく打ち鳴らし、あたりに聞こえてしまうのではないかと思うほどで、花里は恐怖のあまり新三郎の着物を固く握りしめた。
時が悠久のように長く、あるいは止まってしまったかのように感じられる。そうしてどれくらいの時がたったか、いや、おそらくはほんの一瞬の間であったのかもしれない。ともかく花里の念が通じたのか、部屋の前で一度止まった足音は再び動き出し、やがて離れていった。
ほうと安堵の息をつき胸を撫で下ろす。が、もはや一刻の猶予もないのだと花里は悟った。新三郎はおそらく、人を殺めたのだろう。ために追われる身となったにちがいない。ならばなんとしても無事に逃さなければならぬ。
「新さん、今のうちに早う行って」
「すまぬ、花里」
詫びたのは、なにも語ってやれぬ不甲斐なさだろうか。しかし新三郎のこと、話さぬのは危害が及ばぬよう案じたからだと花里にはわかっていた。
「江戸のみやげを買って、戻る」
「あい」
「そうだな、かんざしがいい。江戸の細工もきっとお前に似合うだろう」
――まったくこのお人は、こんなときにかんざしのことなど。
それがあまりに新三郎らしくて、花里は胸が詰まった。
「待っておりあんす、ずっと待っておりあんす。だから早う行って」
「案ずるな。必ず戻る」
「あい、わかっておりあんす、わかっておりあんす……」
泣くまいと必死に唇をかみ、花里は新三郎の背を押す。
新三郎は一度襖にかけかけたその手をふいにひるがえし、花里をつよく抱きしめた。
最後の抱擁のあと、花里が目を開いたとき、すでにその姿は東雲の朝もやの中に消えていた。
新さん、どうか無事で――。
膝から崩れ落ちるように座り込み、花里は遠ざかる気配に重ねて過ぎし日を想う。
それは春の陽のような、やさしい夢の日々であった。
*
それから半年余りが過ぎたある日、花里のもとに一通の書状が届いた。
中には紙で包まれた銀細工のかんざしがあり、その傍らに一房の遺髪が添えてあった。
「……新さん、お帰りやす」
花里はそれらを胸に抱きしめて、声を上げて泣いた。
――それは春の陽のような、やさしいやさしい夢の日々。
―終―