五、一騎当千! キグルミオン! 7
「……」
桐山久遠は背もたれを大きくそらして事務用イスに身を預けていた。
ヒトミも美佳も帰った宇宙怪獣対策機構の指令用擬装雑居ビル。貸事務所の一室としか見えないこの司令室で、久遠は一人天井を見上げる。
脱力しているようだ。右腕こそ上腕部を額に持ってきているが、その他の四肢は重力に引かれるがままに弛緩させている。
「隊長はひとまず無事……ヒトミちゃんも怪我はなし……」
久遠が身を預けていたのは坂東のイスだ。窓を背にした坂東の席の後ろ。壁との間に空いていたこのスペースで、机と体を斜めにして久遠は気だるげに身をイスに預けている。
「美佳ちゃんは元気だし……ヌイグルミオン達も全機帰還予定……」
久遠は一人つぶやく。
「では……私は……私は一人になったとたん、アンニュイに沈むか……ダメね……」
久遠は天井からチラリと窓の外に視線を移した。
窓の端に映る茨状発光体。久遠の目はそれを見つめる。憂いに沈んだ瞳の光が、茨状発光体を受けて光を取り戻す。
「人類の科学はまだまだ無力なのね……医学博士まで持ってるってのに、自分の気分一つまともに保てないなんて……」
いや瞳の光は久遠自身が取り戻したようだ。久遠は目を険しく細めると、空に浮かぶ発光現象を見つめる。
「理論物理者が考えても分からない。実験物理者が観測しても分からない。ましてや〝実戦〟物理学者なんて陰で呼ばれてる私には……」
久遠が額にあてていた右手を茨状発光体に突き出す。高く空に向けて差し出された久遠の右手。単にまぶしかったのか、内なる気持ちが表れたのか、それは拒絶するようにその手の平を茨状発光体に向けていた。
「いまだ距離すら測れていないって何なのよ……スペクトルすら解析できていないってどういうことなのよ……」
久遠が今度は苛立ちもあらわに右手で拳を握る。茨状発光体をつかまんとしてか、その拳は司令室の虚空を一人つかむ。
「地球全土で確認できるくせに、人工衛星や月のような、人類の辛うじて手の届く距離では決してない……宇宙の塵やガスのような既知のものとも全く違う光を放っている……全く人類の手にした科学では、宇宙相手にはまだまだ無力ってことなのね……一般人ですら宇宙に行くこの時代に……軌道衛星上に粒子加速器を浮かべるこの時代に……茨状発光体も宇宙怪獣も、全く人類の理解の範疇を越えているわ……」
茨状発光体は久遠の苛立ちに応える気はないようだ。
「ちょっと、成層圏の向こうに出たからって、宇宙はそんなちっぽけなスケールじゃない――そう人類に言いたいみたいね……」
茨状発光体は応えない。ただそこに横たわっている。
「でもいいわ……ヒントは送ってきてくれてるものね……」
久遠は右手の拳を拡げる。軽く拡げた指を前に向け、握手を求めるかのように手の平を柔らかく開いた。
「さてと……さすがにいつまでも、憂いてる場合じゃないわね……」
久遠はイスから身を起こした。久遠は机上の電話を取り上げる。
「……」
久遠は長く待たされる呼び出し音に苛立つこともなく、静かに目をつむって受話器に耳を傾けていた。
「もしもし……久遠です。お久しぶりです。ええ、元気でやってます。宇宙怪獣の生体サンプル――そちらにも送られていますよね? はは……毎日バーベキューで、グリルが足りないぐらいですって? 私もどうかって? 遠慮しておきますわ。こちらで充分間に合ってます。それにバーベキュー用のグリルなんか使わなくたって、こっちじゃクォーク・グルーオン・プラズマで直火焼きですから」
久遠はそこまで電話口で口ぶりも軽く話をすると、体ごとイスを後ろに引いて窓の向こうをのぞき見た。遠目にヘリが乱舞している一角が目に入ってくる。
「それと新鮮な素材を追加しておきましたよ。鶏か七面鳥か知りませんけどね。羽がありましたから、今度は手羽先にでもしてください」
もちろんヘリが飛び回っていたのは、ヒトミが倒した飛行する宇宙怪獣の残骸の上だ。
久遠からはその場所はよく見えなかったのだろう。久遠はあっさりと窓から身を離し、坂東のテーブルの上に手を伸ばした。
「で……何か新しいことは分かりましたか? 何も? 即答ですわね。あはは」
そこには冷め切った紅茶がカップの中で琥珀色の光を反射していた。
久遠が笑いながら手にとると、その表面がさざ波のように細かく揺れた。
「こちらも、カラーでフレーバーな紅茶でも楽しみながら、考えさせてもらいますよ。えっ? 何ですって? 君は考えるより、感じる方だろう――って。あはは、確かに――」
久遠はたゆたうカップの水面に鼻先を近づけると、その琥珀色の液体を愛しげに見つめ大きく息を吸った。
「私は戦う物理学者――実戦物理学者の桐山久遠ですからね。五感で感じて見せますよ――宇宙をね」
久遠は電話の向こうの人物にそう告げると、冷めてしまった紅茶を実に満足げに飲み干した。
改訂 2025.08.07