五、一騎当千! キグルミオン! 5
「とにかく今はじたばたしても始まらないわ。疲れてるでしょ? 続きは明日にしない?」
久遠がニコリと微笑んで振り返る。太陽は朝日から完全に昼の陽光に変わろうとしいた。陽の光と窓の端に辛うじてかかっていた茨状発光体。そのまぶしい光を背に久遠はヒトミに微笑みかける。
「でも……」
ヒトミは戸惑いがちに答えた。あらためて組んだ手が緊張にぐっと組み合わされる。
「隊長はおそらく数日は帰ってこないわ。まあ自衛隊の方で強制的に入院してもらえるのは、ある意味ラッキーだったのかもね。実際怪我してる以上休んで欲しいし、あの人が普通の病院で大人しくしてるとは到底思えないものね」
「……」
「ふふん、とにかくお見舞いの手続きはしておく……ぐふふ、大人しくさせられてる隊長はさぞかし見物……動けないパジャマな隊長に、どのヌイグルミオンをけしかけてやろうか……」
応えないヒトミに代わり美佳が楽しげにつぶやいた。
「美佳、隊長一応怪我なんだから」
「ふふん……」
ヒトミの抗議に美佳がわざとらしく鼻を鳴らす。さっそく手続きに入ったのか、それとも聞く耳持たないとのアピールなのか、その手は忙しげに情報端末を繰った。
「それに宇宙怪獣との連戦で、休みが必要なのはヒトミちゃんも同じ。医学博士として、ここの人員の健康管理も私の仕事なの」
「でも……」
「ヒトミちゃん。休める時には休まないとね」
「……」
「それとも何? お尻にぶっといビタミン剤を注射されたい?」
久遠が微笑みを怪しい笑みに換える。
「いえ、それは……ちょっと……」
「それかアレね。キグルミオンの科学談義が聞きたいのね。『グルーオン』に『ダークマター』、『シュレーディンガーの猫』に『ウィグナーの友人』。もちろん『観測問題』を語るなら『量子の振る舞い』は外せないわね」
「えっ? あっ、いや。その……」
「『エキゾチック・ハドロン』に『クォーク・グルーオン・プラズマ』、『エンタングルメント』は絶対に聞いておいてもらわないと。そうなれば『EPRパラドックス』も説明しておきたいわね。EPRってのは、アインシュタイン・ポトロスキー・ローゼンの略ね。エンタングルメント――量子のもつれは不思議よ。素敵よ。面白いわよ。ああ、こうなると『量子テレポーテーション』も話しておかないとね」
「あの……久遠さん……」
「そうね。テレポーテーションと言っても、人間が離れた場所に瞬間移動することじゃないわよ。情報が瞬時に伝わることなの。簡単に言うと一度エンタングルメントした――もつれた量子はどんなに離れていてもお互いが影響するのよ。まず観測されていない二つの量子をもつれさせてね、これをどんどん物理的に引き離すの。量子ってのは観測するまでは状態が確定しないの。これがシュレーディンガーの猫や、ウィグナーの友人に代表される観測問題。不思議で仕方がない量子の振る舞いの一つよ。でね二つの量子を、その相手が確定して初めて自分も確定する状態にしてやると、二つの量子ともその状態は未確定のまま置いておかれるのね。でもどちらかが確定すると、その情報はもう一方に瞬時に伝わり、そのもつれている相方の量子の状態も確定するの。不思議よね。素敵よね。でもね、もっと面白いのはこれから。この『瞬時に伝わる』は、物理的な距離に左右されないと言われているわ。それこそ何万光年離れていてもね。だから光速不変――光より早く情報は伝わらないとしたアインシュタインは、パラドックス――矛盾している、あり得ないって言ったのね。EPRパラドックスは、『ベルの不等式』によってパラドックスではないとされちゃったんで、今は単に『EPR相関』と呼んでいるわ」
「はぁ……」
「状態が観測されるまで確定しなかったり、情報が瞬時に伝わったり。不思議でしょ? 凄いでしょ? 科学はロマンなのよ」
「はぁ……」
ヒトミはぽかんと口を開けて同じ言葉を繰り返す。
「博士……ヒトミが結局休めてない……何ていうか、オツム的に……」
美佳が情報端末から顔を離さず横目でヒトミをのぞき見た。
「そうね、美佳ちゃん。どう、ヒトミちゃん? ほぼ徹夜明けの身に、私の科学的解説は――こたえるわよ……ふふ、精神的にね……」
「え、えっと……休ませていただきます……」
ヒトミが重たげにイスから立ち上がった。
「ヒトミちゃん……」
フラフラとロッカーに振り返ったヒトミに、久遠が小さく呼びかける。
「何ですか?」
「情報は――どんなに離れていても伝わるわ。一度もつれればね。だから――」
「?」
「だから――想いも伝わると思うの。一度出会った人とならね……」
久遠は優しく微笑む。
「ふふん……」
二人の会話に耳をそばだてながら、美佳はもう一度〝立ち向かう少女〟の写真を情報端末に表示させた。
少女は巨大な足の下で己も戦わんと身構えている。やはりその左足の構えは、わずかに写っている巨大な足と同じ角度に構えられている。
まるで二人の運命がそこでもつれたかのように――
「はい」
ヒトミは力強く応えると、その時と同じ足で歩き出した。
改訂 2025.08.07