一、鎧袖一触! キグルミオン! 4
ウサギの着ぐるみが、恐喝現場に割って入っていた。
円らなプラッチックの瞳。常に笑っている口元。ウサギであることを主張する、アンバランスで大きな耳。そして白い――残念ながら少々黄ばんで薄汚れた生地の肌。
その肌の上に、子供受けする原色が配された衣装を着ている。やはりこちらの衣装も、所々色あせていた。
そう何と言うか全体に安っぽい。いかにも低予算で作られ、使い古された着ぐるみだ。
そんな少々残念でファンシーなウサギの着ぐるみが、肩甲骨もたくましいその筋の男の前に立ちはだかっていた。
その異様な光景に、後ろの街路をいく人が遠巻きに通り過ぎていく。
「チャ、チャッピー……だぁ……」
男は苛立たしげに声を絞り出す。
今月の上納金がまとまらず、金策に文字通り走り回っていた。街ゆく会社員風の男性に少々肩がぶつかり、頭の中が一瞬で真っ白になった。一気に血が上っただけだった。
しかし元より舐められたままでは終われない職業だ。ましてやストレスは最高潮に達している。何より少しでも金になる。
男はおびえ謝る会社員を、有無を言わせず路地裏に連れていった。
そこに突如現れたのだ。少女が、ウサギが、着ぐるみが。何だか頭の悪そうな奴が。
苛立ちもここに極まれりだ。
「舐めてんのか!」
男は怒りのままに拳を振り上げた。相手は素人。その上少女。それ以前に着ぐるみ。一発ヤキを入れれば、泣いて逃げ出すと思っていた。
だが――
「――ッ! 何?」
だがウサギの着ぐるみ――チャッピーは、さっと左足を後ろに退くやその身を半身に構えた。
そして男の拳は空を切る。いや、ただ空を切るだけではなかった。伸ばし切ったその右腕は、完全に相手に懐をさらす結果となっていた。
その懐にチャッピーが崩れぬ笑顔で潜り込む。
「何だ! おらぁ!」
この男でなくとも、そう叫びたいだろう。
楽しげで巨大なウサギの顔が、あくまで真面目にキレている己の顔に押しつけられたからだ。
だが男は気がつけば右手の裾はつかまれ、左の襟も捉えられていた。腰は完全に相手の腰に浮かされ、全ての重心が右に傾けられている。脚の裏からは、瞬く間に地面の感触が消えていた。
次の瞬間――
男は宙を舞っていた。そう、一本背負いで投げられていた。むしろ心地よいまでに全身で空気を切り裂きながら、男の体はチャッピーの背中で反転する。丸で風車だ。
「えっ?」
気がついたのは背中を地面に着いた後だった。そして地面で背中を強く打たないように、直前で体が引き上げられたのもその瞬間に悟る。
しかし男はその現実が受け入れられない。ただただ呆然と、しばしビルの屋上に区切られた青い空を見上げる。
投げられたのだ。この狭い路地裏で、ものの見事に。そして手加減されたのだ。素人に。少女に。着ぐるみに。ウサギのチャッピーに――
「この!」
男はそこまで思い至って、またもや頭に血を上らせる。男は頭に昇る血の勢いのままに立ち上がり、闇雲に拳を振り回した。
だがチャッピーはその大きな頭にもかかわらず、軽々と男の拳を上半身の動きだけでかわした。
ストレートは少し右に左に体を傾けるだけで、男の腕はあさっての方向に外れていった。フックは前に屈んでかわし、男の拳は空しく宙だけを刈る。アッパーは後ろにそって逸らし、男の手は虚空に向かって突き上げられた。
足下の動きも軽やかだ。
男は目測をつける度に前に出る。だがチャッピーはすぐに、ステップを踏んで相手との距離をとる。横と後ろに軽やかに動き、必要充分な分だけ移動する。
やはりこの狭い路地裏で、チャッピーは男の攻撃をいなし、そしてかわしていく。
それはまるでウサギそのものの――
見ている者にそう思わせる素早さだ。
「ぐぎぎ……」
男の拳は何度放っても、相手に当たらない。男は歯ぎしりかうなりか分からない声を、思わず漏らしてしまう。そして業を煮やしたのか、
「てめぇ!」
一気にチャッピーの懐に飛び込んできた。
しかしその男を迎えたのは、足先に走る衝撃と、空転する視界だ。男の体はあたかも鉄棒に体を預けたかのように、空中で横に一回転する。
男が地面に落ちた瞬間に見えたのは、軽く上げられたチャッピーの右足だ。
また倒されたのだ。今度は右足一本で。やはりふざけたウサギの着ぐるみに――
男の視界は一気に、理性が燃え尽きたかのように真っ白になる。全ての視界が狭まったかのように、周りが白くなり見えなくなる。
もはや怒りで目の前のウサギの着ぐるみしか見えない。ここがどこであったのか、相手が何であるか、今がどういう状況か、男には全てが見えなくなる。
「てめえーッ!」
怒りのままに男は立ち上がると、素早く懐に手を入れる。
「――ッ!」
そして男は震える手でその手を突き出すと、
「キャーッ!」
周囲の悲鳴に酔いながら、何か鈍く光るものをウサギの着ぐるみに突きつけた。
ナイフだ。
「なっ?」
さすがに驚いたのか、ウサギのチャッピーが硬く身構え直した。
「姉ちゃんよ! 覚悟――」
男が恫喝の為に顔を歪めたその時――
ごおおおおぉぉぉぉ……
地鳴りのような、腹の底を直に震わされたような、まるで巨大な獣――そう、怪獣でも咆哮したかのような声が響き渡った。
改訂 2025.07.29