二十五、国士無双! キグルミオン! 5
「つまり宇宙船というのは、延々に落ち続けているということですか?」
その質問にミーティングルームがざわめいた。
臨時の講義室と化しているミーティングルーム。講義の主の知名度から、SSS8に滞在する多くの研究者がその講義内容を一目見んと集まっていた。
若手が多いが各国が国家予算をつぎ込んでまだ送りんできた研究者たちだ。
そしてその研究者達が目を輝かせて聞きに来る講義だ。講義の内容は最新の研究成果の発表という訳ではない。
高校生に宇宙物理を教えるための、間に合わせの講義だった。
だがこの教鞭をとる人物が、このSSS8の建造に尽力し、また宇宙怪獣と唯一対等に渡り合える兵器の理論者だとなると話は別だ。
将来のノーベル賞候補のような研究者達が、神経の全てを傾けて講師の発言に耳を傾けていた。
それはこの世界的な頭脳から、ひょっとしたら次の物理学を導くヒントが漏れるかもしれない期待感からだ。そして宇宙でこの人物より講義を受けたという、ある意味ファン心理からだ。
世界の頭脳が集まるSSS8の中で、今まさに頂点の一角に立つ人物と、将来頂点に立つであろう研究者達が集まっていた。
その中で場違いなまでの質問が飛び出した。
「落ち続けているけど、ものすごい高いところから円を描いて落ちてるんですか? いつまでたっても地球に落ちないぐらい、ずっと回りながら落ちているってことですか?」
各国の言語で翻訳されたその質問は、実にたわいのない問いかけだった。
元の言語で発した少女以外は、誰もがずっと以前に理解していることだった。
各国の言語に翻訳されて、発言者以外の耳に届くと失笑すら漏れた。
だが少女は周囲の失笑を意に介した様子も見せずに続ける。
「円を描いて回ってるから遠心力が働く。それでこの高さでも届く重力と釣り合って、宇宙船の中は無重力なんですか?」
少女は名だたる研究者を前にしてごく初歩的な質問を繰り返す。
無重力に体をもっていかれないようにベルト縛り付けた椅子。そこに座り少女はまっすぐ手を上げて質問を続けた。
「ヘイ、ガール。それは『プリンキピア』の昔に分かってることだよ」
研究者の一人が少女に振り返る。
彼は天井近くに居た。
無重力のミーティングルーム。我先に場所取りに集まった若手研究者達。
どこでもいいから少しでも聞き取り易い場所を取りたい。少しでも講義にあたる研究者の目につく位置にいたい。あわよくば指さされる立場でありたい。
そのような願望が多くの者を天井や壁のいたるところに居させた。
その中の一人の男性が少々困ったような顔で講義の主に代わって答えた。
周りの研究者の中には露骨に侮蔑の表情を浮かべる者もいた。
「『プリンキピア』ってなんですか? どれくらい昔の話ですか?」
だが少女はひるまずに質問を続ける。
「『プリンキピア』だよ! ガール! 小学校の時に習わなかったかい?」
「習ってません。習ってても、覚えていません」
「オゥ……ニュートンも知らずに、君は宇宙に居るのかい?」
答えた人物は心底困ったように顔を覆う。
「ニュートンって偉い人ですよね? ずっと昔の人ですよね? そんな昔に、宇宙船ってあったんですか?」
「ハイ、ガール。『プリンピキア』は初版が1687年の書物だよ。宇宙船なんてあるわけない」
「宇宙船がないのに、どうやって確認したんだすか? 飛行機でやったんですか?」
「君はライト兄弟が、いつ生まれたか知ってるかい?」
「知りません。いつですか?」
「ハハ……」
何度も実直に質問を繰り返してくる少女に、最後は根負けしたように天井の研究者は肩をすくめてみせる。
周りの研究者達も困り顏で首を左右に振った。
「おかしいですか?」
少女は別の研究者に疑問を投げかけた。
「少なくとも、そこにいるのは高校の先生じゃない。世界最高峰の頭脳なんだよ。宇宙物理学の権威だ。ここにいる世界の研究者の皆が、その発言の一つ一つに目を見張る人物だ。なんというか、初歩的過ぎてもったいないよ」
「でも、私は宇宙船が何で浮いているかだって知りません」
「はは……だから、それは宇宙に浮かぶ前に、お勉強しておくことだよ」
多くの失笑とともにその返答はなされた。
「ヒ、ヒトミ……」
さすがその様子に隣に座っていたもう一人の少女が発言の少女の袖を引っ張る。
「何、美佳?」
「さすがに、場違いな感じが……」
講義に座っていたのは、もちろんヒトミと美佳だった。
「何で? これは私達二人の為の授業だもの。分からないことは、訊かないと」
「ぐぬぬ、でも何か……初歩的過ぎて、皆に笑われてるみたい……」
美佳が困惑に半目の上の眉毛を寄せて、周囲や天井を見上げる。
そこでは笑いをこらえている者や、実際に笑っている者など、皆がヒトミの初歩的な質問に困惑して笑うしかない様子が見て取れた。
「……」
ヒトミが周囲を見回す。
困惑や戸惑い、茶化すような視線がそのヒトミの瞳を受け流す。
ヒトミはそれらを一通り見回すとまっすぐ前に向き直った。
「……」
ずっと黙ってやりとりを聞いていた講義の主がまっすぐその瞳を受け止める。
「そうだよ。この娘は、ニュートン力学も知らずに、この宇宙に居る」
ヒトミの目をまっすぐ見つめ返しながら、講義の主の鴻池天禅が静かに口を開いた。
「鴻池先生。先生ほどの人物が、ニュートン力学の初歩の初歩の講義だなんて、ナンセンスです」
「そうですよ。『慣性の法則』ぐらい、地上の学校で習えるはずだ」
「今、宇宙で私達は最高のチャンスを掴んでいるです。もっと高度な講義をお願いできませんか?」
天井から壁から若手研究者達が熱心に鴻池に申し出た。
「……」
鴻池は一通り皆の要望を耳に入れながら、それでいてヒトミの瞳から目を離さずにいた。
「この娘は『慣性の法則』も知らないだろう。アインシュタインの奇跡の年の三本の論文だって一本も読んだことがない。ましてやニールス・ボーアのコペンハーゲン派に属している訳でもない。もちろんファインマン図が書ける訳でも、南部の量子色力学を理解している訳でも、ここの粒子加速器を使ってヒッグス粒子に匹敵するような新粒子を発見しに来た訳でもない」
鴻池はヒトミの目をじっと見つめながら続ける。
その雰囲気に周囲の失笑がすっとおさまっていく。
「そんな娘を、宇宙に上げないと人類は滅亡する。今、その時を迎えている。そしてこの娘は、今知ろうとしている。これはこの娘達の為の授業だ。私はどんなに初歩的なことでも、彼女が知りたいと望めば答える。彼女達の邪魔になるのなら、君たちの方が出て行きたまえ」
鴻池がいつにない真剣な眼差しで若手研究者達を睨みつけた。
「講義を続ける。宇宙船がなぜ宇宙に浮いていられるかのような、初歩の物理学だ。聞きたくないものは、出て行きたまえ」
鴻池がそう宣言すると、
「……」
ヒトミは一言も聞き漏らすまいとするように、ベルトに縛られた体を前に乗り出した。
作中、宇宙船と『プリンピキア』の関係は以下のサイトを参考にしました。
http://iss.jaxa.jp/iss_faq/go_space/step_2.html#q06