二十一、百花繚乱! キグルミオン! 11
その初老の男は一人人影もまばらなレストランで背を丸めていた。
地上の夜のレストランだった。
窓から入ってくる薄明るい今の夜の光が男のシワの浮いた顔を照らす。
そして時折窓の外を通る軍用車両のライトが、男の顔のシワの更に深いところまでを浮き彫りにする。
長くまっすぐ続くの道にポツンと一つだけあるようなレストラン。建物の経営も傾きかけているのが一目で見えるような薄汚れた店だった。
質素な料理が男の前の皿に盛られていた。手抜きと言ってもいいかもしれない。フライにしただけの魚に、切ってドレッシングをかけただけの野菜。申し訳程度のピクルスと、別の皿に盛られた工場生産のパン。
男は誰もが腹を満たすために掻き込むような料理を両手に持ったフォークとナイフでゆっくりと口元に運ぶ。
男の席とは反対側の席で男女の連れが一言二言大きな声を上げて笑う。
「……」
男はその方向に目だけ向けた。
睨んだという感じではない。ただそこにある何かを観察したかのような視線だった。
男女は興が乗ってきたのか辺りの人間に構わず奇声めいた話し声を上げる。
元より周囲に気を遣わないといけないような人間などいなかった。人影もまばらな店内は初老の男と、騒ぐ男女。その他顔を真っ赤にした半分寝ているような酔客しかいない。
レストランのオーナーも、ウエイトレスもカウンターに引っ込み暇そうにあくびをかみ殺していた。
男女の声は更に大きなものとなる。
「Anthropic principle……」
初老の男が呟く。
口に運んだサラダを噛み切るついでに声に出しただけのような呟きだった。
男はそれだけ呟くと興味をなくしたように食事を続ける。
ウエイトレスがかみ殺し損ねて大きくあくびをした。誰もそのことを咎めることはない。オーナーは暇そうにテレビを見上げ、男女の客は食事もそこそこに騒々しい会話を続け、酔客は椅子から転げ落ちそうになりながら船をこぐ。
初老の男は無表情で食事を口に運んでいた。
ただただレストランが場所と食事を提供するという最低限のその役割を果し続ける。
「博士! こんなところにいらっしゃいましたか!」
そのレストランのドアが荒々しく開けられるや、恰幅のいい軍服の男が驚く声とともに入ってきた。
軍服の胸にはいくつもの勲章が付けられている。ジャラジャラとの勲章を揺らしながら男はまっすぐ初老の男のところへと駆けてきた。
「……」
博士と呼ばれた男はやはり目だけ動かして軍服の男を見た。
「何もこんなところで、お食事を取らなくとも」
軍服の男は辺りを見回しながら博士に近づく。
その声が聞こえていたのかウエイトレスがしかめっ面で軍服の男に舌を出して見せた。
「若い軍曹に一番近いレストランを訊いたら、ここを紹介されたがね」
「近いだけです。移動はどうしたのですか?」
軍服の男は博士の前の席にどっかりと座る。
「その軍曹が車で送ってくれたよ。終始笑っていたな。何があんなに彼を笑わせるのだろうか?」
「護衛もつけずですか? 食事なら、私どもお申しつけください。こちらから車を出させますので」
男が座った窓の向こうで列をなした軍用車両が止まっていた。それぞれの車に銃を肩にかけた兵士が見張りに立っていた。
「あんなにぞろぞろとかね?」
「当たり前です。あなたは今や時の人です」
ウエイトレスがグラスに水を汲んで席に近づいてきた。そのグラスの表面には水滴が浮いておらず、いかにもぬるい水が入っているのが見て取れた。
「君らのPR会社が勝手にやってることだ」
「宇宙怪獣に、核以外の手段でようやく対抗できるのです。我が国の力を国民にアピールして何が悪いのですか」
音を立ててグラスがテーブルに置かれる。
軍服の男は注文を取ろうとするウエイトレスを手を振って追い返した。
ウエイトレスが何やら汚い言葉を呟きながらあからさまに不機嫌に体を左右に揺らして去っていく。
「アピールね……」
博士が懐からハンカチを取り出した。
「アピールです」
「存在の証明……自己の観測……自我の確認……」
博士はハンカチで口元を拭いながら呟く。
「博士?」
「Anthropic principle……」
「人間原理というやつですね? 私ら軍人にはよく分かりませんが」
「証を立てないいけないこと、人間原理は関係ない。それはあの男だけが論じていることだ」
「ドクター・コウノイケですね?」
「……」
博士が口元を拭うのをピタリと止めて、やはり目だけ動かして軍服の男を見た。
「……」
その視線を受けて軍服の男も黙ってしまう。
「中の人など不要だ……」
「ええ。その優位性をこれからもアピールしますよ」
「それがあの男には分かっていない……」
「ええ! 我が軍の方が、人道的だと知らしめてみせます」
「……」
噛み合わない会話に博士が紙幣をテーブルに置いて無言で立ち上がる。
「博士! ここは我々が出します!」
軍服の男がやはり勲章をジャラジャラと鳴らしながらその紙幣を掴んで立ち上がった。
「……」
博士は後ろから聞こえて来る声に振り返りもせずにドアへと向かった。途中騒ぎ続ける男女の横を無言で通りすぎた。
博士がドアのノブに手をかけると、その向こうから慌てたように兵士がドアを開ける。
博士と呼ばれた初老の男はそのままドアの外に出て夜空を見上げると、
「そう……人間など不要だ……」
無表情に謎の荊状発光体を見上げてそう呟いた。
(『天空和音! キグルミオン!』二十一、百花繚乱! キグルミオン! 終わり)