一、鎧袖一触! キグルミオン! 2
それから十年後――
「止めなさい!」
己を信じて疑わない――そんな凛とした、それでいながらくぐもった声が響き渡った。
そう、それはくぐもった声だった。何か空洞で反響するかのような少女の声が、それでいて力強く狭い路地に響き渡った。
それは昇り始めたばかりの今日の陽射しにも負けない程、力強い意思のこもった強烈な声だった。
ここは繁華街。その路地裏。
華やかな表通りとは裏腹な、人気がなく陽も差し込まない人生の裏街道――そんな場所だ。
生ゴミの匂いが鼻をつき、湯気の熱気が皮膚にまとわりついた。路地を濡らす油が靴底をすべらし、煩雑に並べられたゴミ箱や自転車が衣服に引っかかる。雑然としたビルの谷間だ。
何となく脚を踏み入れるのをためらわれる、社会の裏舞台のような場所だ。
だが――
「あぁん!」
「止めなさいって、言ってるのよ!」
だがくぐもった声の主は、この路地裏の陰鬱な雰囲気に臆さないようだ。変わらずよく響く声で、相手を制止しようとしていた。
声の主はやはり少女だった。しかもまだ若い。声から察するに、まだ高校生ぐらいだろう。
「何じゃわりゃ? 何のようじゃ? 儂がどういうもんか、分かっとんのか?」
そう、これもんで、それもんで、あれもんな感じの――その筋のお兄さんに、立ち向かっていいような歳には思えない。
裏地に龍の刺繍をした背広をはためかせ、その男は眉間にシワを寄せて振り返る。広い肩を怒らせ、脚を方々に投げ出すようにその少女らしき人物に近づく。
剃り上げた頭も、悪趣味な光沢を放つ足下の革靴も、そして胸に光る、時折ニュースで見かけるマークのバッチも――その全てがわずかな隙間から差し込んだ光に、威嚇するかのように反射していた。
その男の向こうには、おびえたように縮こまる男性が壁を背に震えていた。こちらは見るからに一般の会社員のようだ。
「あなたが何者かは知りません。ですがあなた方がぶつかったのは、お互い様なのは私は見てました」
「あん! 姉ちゃんよ! あまりふざけた格好で、ふざけたことぬかすと――」
「姉ちゃんではありません!」
少女は相手に『ふざけた』と言われた格好で、ドンッと一つ前に出る。
大きな影が背後の繁華街の光を切り取っていた。確かにその影は少女のものにしては大き過ぎた。こんもりと路地裏の入り口を陣取っている。だが声は間違いなく少女のものだ。
「姉ちゃんじゃなきゃ、何だってんだ! あぁん!」
男の怒りは今にも頂点に達しようとしていた。
沸々と湧き上がる感情のままに、剃った頭のヒフに血管が浮き出る。その血管が内で破裂でもしているかのように、男の顔は真っ赤だった。
歯は暴力の衝動を押さえるかのように噛み締められ、指先は今にも殴りかからんと内に折り込まれて震えていた。
それほどの怒りを買う程、少女の格好は人を――食っていた。
「私は――」
そう、なぜならその少女は――
「私はウサギのチャッピーです!」
ウサギの着ぐるみを着ていたからだ。
2025.07.29 改訂