十七、不撓不屈! キグルミオン! 10
「いぃぃぃぃやあぁぁぁぁっ!」
SSS8内に若い女性の悲鳴がこだました。
薄絹を裂くようなその悲鳴は、まずは狭い室内の壁という壁を震わせた。
悲鳴はちょうど開いていたドアから外へも漏れ出て、尾を引いて通路の壁や天井をも震わせた。
「ダメよ、美佳ちゃん!」
「ふふん……」
「それだけは……それだけは!」
「ぐふふ……」
悲鳴を上げたのは久遠で、不敵な笑みで応えたのは美佳だった。
SSS8内のキグルミオン司令室。その一角で久遠が両手を前に突き出して恐怖に顔を引きつらせていた。
重力下なら腰をついて後ずさりしていただろう。久遠は手を間に突き出し腰を完全に引いていた。浮いた足はばたつかせ、首は勢いよく左右に振られていた。
無重力でそのような闇雲の動きをすれば、体の安定は当然利かなくなる。
久遠の体が無軌道に揺れ始め、白衣の裾がはためくように揺れた。
そしてその白衣とともに背中で何かが揺れる。
「それだけは――勘弁して!」
久遠の体がついに反転する。久遠は壁から突き出た手すりを蹴ると、ドアに向かって逃げるように身を躍らせた。
ドアの横には人影があり、自身の体で開けたそのドアから外の様子を伺っていた。
外からの銃撃や襲撃に備えて僅かに覗かせた顔で外の様子を伺う兵士のように、その人物は屈強な体をドア際の壁に張りつかせていた。
久遠は蹴った勢いでふわふわと浮かびながらドアに向かって漂っていく。
ドアの人物に向かって飛んでいく久遠。その久遠とドアの人物の前に小さな影が躍り出てきた。
子供のように小さなその影は久遠の行く手を阻まんと出て来たライオンのヌイグルミオンだった。
「ヒルネスキー……」
美佳がその名を呟くとその小さな影はタテガミを勢いよく震わせる。
獅子の雄々しいタテガミをふわふわに震わせたヒルネスキーが、両手を胸の前で組んで久遠の行く手を阻んだ。
「きゃーっ」
久遠が小さな悲鳴を上げてヒルネスキーに激突する。縫いぐるみ然としたヒルネスキーの体と接触した久遠は、お互いの身を弾き飛ばしながらそれぞれ反対側へと弾き飛ばされていく。
久遠は元居た美佳の下へ。ヒルネスキーは屈強な体躯の人物の背中へ。それぞれが無重力故に止まることもできずに漂っていく。
久遠は無重力でむやみやたらに手足を振って、水中を泳ごとするかのように無我夢中でもがいた。
それでも空気を水のように掻くことはできずに、背中から美佳の下へと戻っていく。
「いやっ! 生き恥をさらすなんて!」
「ぐふふ……博士も往生際が悪い……」
尚も逃げよとする久遠の白衣の裾を、美佳がむんずと掴んだ。
「だって、美佳ちゃん! この歳なのよ!」
「大丈夫、大丈夫……可愛い、可愛い……」
「お世辞ね! こんな時に、お世辞なんて要らないわ!」
白衣の裾を掴まれて暴れる久遠に、
「少しは静かにしろ! こっちは警戒態勢だぞ!」
ドアのところで警戒していた人物がじれたように振り返る。
それは翻訳されて天井から指向性のある音声として久遠と美佳の耳に届けられた。
元はロシア語らしきその言葉は、僅かな遅れで日本語に翻訳されて二人に届く。
「イワン大佐……」
ようやく暴れるのを止めた久遠が、美佳に白衣をつままれたまましゅんと応える。
「たく……テロの疑いがあるというから、警戒してやっているというのに……緊張感のない……」
「はぁ。スイマセン」
「しかも、誰が敵か分からない。多人数では逆に敵に紛れ込まれる可能性がある――だと? いや、それは分かる。だがそれで俺のチームのコンビが、ふざけたライオンの縫いぐるみとはどういうことだ?」
イワンが目を剥いてライオンの縫いぐるみを見下ろした。その目には本気で殺意の色が浮かんでいた。
イワンのシベリアの空気のように冷たく肌を刺すような視線に、ヒルネスキーはサバンナの熱気沸き上がる大地のような堂とした態度で胸を張った。
「ヒルネスキーは、ヌイグルミオン随一の武闘派……イワン大佐とは、馬が合うはず……」
美佳が久遠に変わって不敵な笑みで答えた。
「馬? ライオンだろう?」
「日本語の慣用表現……別にライオンが合うでもいい……」
「ふんっ!」
イワンが構っていられないとばかりに鼻を大きく鳴すとドアの向こうに目を向け直した。
「ほら……イワン大佐に頑張ってもらってる……博士も頑張る……観念する……」
「はぁい……」
久遠が渋々と身を翻し美佳の隣に並んだ。
「ユカリスキー他、ヌイグルミオン達、救助宙域に無事到着……ヒトミ達の無事を目視でも確認……目立った損傷などない模様……小芝居も無事終了……ヒトミの反応を見るに、小芝居は好評だったと判断……情報の緊密化の為、リンゴスキーの持つ映像通信端末に通信をつなぎます……」
美佳が手元の情報端末に目を落として状況を淡々と報告した。
美佳の最後の報告と同時に天井際に設置されたモニタに宇宙服が大写しになった。
それと同時に久遠がすっと体を離れていくように横にずらした。
「ヒトミ、隊長……無事……よかった……」
板東の姿に美佳が安堵の息を漏らす。
それと同時に未練がましくカメラから逃れよとしていた久遠の肩を掴む。
「美佳ちゃん!」
「美佳! そっちは大丈夫だった?」
「こっちは大丈夫、ヒトミ……オソラスキーが守ってくれてる……」
美佳が久遠の肩を掴みながら音声だけ先行して聞こえて来たヒトミに応える。
美佳は頭を覆い隠すようにモモンガの縫いぐるみをかぶっていた。そのモモンガの頭が左右に細かく揺れた。どうやら掴んだ久遠が逃れようとして暴れているようだ。
「博士も大丈夫……可愛くヨゾラスキーが守ってくれてる……」
久遠は美佳に強引に引かれて戻ってくると、
「いやぁぁぁぁぁっ! 恥ずかしい!」
ムササビの縫いぐるみをかぶった顔を真っ赤にしてカメラに曝した。