十六、明鏡止水! キグルミオン! 11
「……」
ヒトミは黙って己の胸に手を当てる。
宇宙に浮かぶキグルミオン。そのふわふわでもこもこの体が、ヒトミのその動きに合わせて胸に手を当てる。
「ふぅ……ふぅ……」
そして荒い息を整えようとしてか、ヒトミが無理に一定のリズムを与えて空気を吐き出した。
その手がやはり荒い呼吸に上下する胸の動きに合わせてゆっくりと脈動するように動く。
スポーツ選手が試合の開始前に己の中の何か誓うように、その手は胸にぴったりと合わせられていた。ぴったりと合わせた掌は、その下で動く胸の上下の動きに忠実に寄り添って動いた。
「ふぅ……」
ヒトミは先と同じように息をゆっくりと吐き出す。
無駄に動くことを止めたヒトミ。そのヒトミとエンタングルメントして動くキグルミオンは、今や静かに宇宙に身を任せていた。
宇宙に身を委ねるキグルミオンは、その瞳を真っ直ぐとその深淵へと向ける。
プラスチック然としたそのキグルミオンの瞳は、そこだけは可動部がなくエンタングルメントしていても変化はない。キグルミオンはヒトミが目をつむろうとじっと宇宙にその円な眼差しを向け続ける。
無垢なまでの眼差しで宇宙を見つめる着ぐるみに、その宇宙は瞳に写り込むことでしか応えない。
真空の宇宙は音を伝えない。宇宙はただ無音でそこにあるだけだった。
「ふぅ……」
ヒトミの息の間隔は見る間に広がっていく。
ヒトミは一呼吸一呼吸で落ち着きを取り戻していった。
今や背中のバックパックも完全に沈黙していた。今キグルミオンのキャラスーツの中で、ヒトミの耳に届くのは自身の大きく吐く息だけだった。
「すぅ……」
それもやがて密やかになっていく。
ヒトミはヒトミ自身が漏らす息に耳を傾けるように、キャラスーツの中で目をつむってただ胸だけを上下させる。
やはり試合前の選手の精神統一のようにヒトミは黙って己の胸に掌を立て続けた。それは己の胸の内に問いかけているようでもある。
「……」
そしてその息の音すら大きく空気を吐き出すと何処かに吸い込まれていくように聞こえなくなる。
ヒトミの胸で別の音が響き出す――
掌を通じて。そして直に耳朶を打つように。その音は己の中から意識せずに響いてくる。
無音の宇宙でヒトミのその鼓動だけが、ヒトミ自身の耳に伝わってくる。
「宇宙の始まり……ビックバンに、インフレーション――」
ヒトミが不意にぽつりと呟く。
「生まれてくる粒子達……対称性は破れ、動きにくさは質量へと変わる……クォーク、グルーオン、ヒッグス……」
目をつむってヒトミは続ける。
「光子、陽子、中性子……ミューオン……ニュートリノ……」
ヒトミは一人続けた。
「素粒子はやがて集まり原子となる……水素、ヘリウム……」
ヒトミは胸に手を当てたまま一人呟き続ける。
それに寄り添うように応えるのは、己の心臓の音だけだった。
「できた原子は宇宙を漂う星間ガスになる……それを引き寄せるのは、ダークマター……」
鼓動が打つ相づちに、ヒトミは時に押されるように、時に引っぱられるようにヒトミは呟き続ける。
「うん……結構耳に残ってるもんね……数式はさっぱりだし、細かいことはあやふやけど……」
ヒトミがくすっと笑った。
胸に置いた手は脈打つ心臓の鼓動を直にヒトミに伝える。
もっともっと先を知りたいと促すかのように、心臓の音は早鐘のようにヒトミの胸で鳴り響いた。
「ファーストスターに、セカンドスター……最初の青い星々の死は、それに続く新たな星の誕生の揺り籠に……そして――」
ヒトミがようやく目を開ける。ヒトミはその体をゆっくりと反転させた。
キグルミオンが身を翻すとその瞳には、大きな青い地球が写り込む。
「恒星が作り出してくれるハビタブルゾーン……その暖かな輪の中を巡る地球……うん……そこに生まれた命だ……私は……」
ヒトミの瞳に地球が重なる。地球そのものがヒトミの瞳のようにその目に写り込んだ。
心臓の鼓動は更に高鳴る。
天空に浮かぶヒトミが、天球を瞳に浮かべてその音に耳を傾けた。
「だから――」
ヒトミが不意にその目をかっと見開いた。
鋭く見開いたヒトミの視線の先には、
「滅ぼさせれる訳にはいかないの! 宇宙怪獣!」
小さな赤い点が二つ、妖しく輝きながらこちらに向かって来ていた。