十六、明鏡止水! キグルミオン! 3
「今回もやはり……SSS8に直進してるようだね……」
蓬髪めいたもじゃもじゃの髪をガリガリと掻き、五十過ぎの男が呟いた。
久遠の師で、おやっさんこと鴻池天禅はモニタに静かに見入っていた。
鴻池の頭上では避難を促す警告灯が明々と点滅している。
そしてやはり避難を呼びかける警報も鳴り響いていた。
鴻池は自身が鴻池研究室の旧室だと呼んだ部屋に止まっていた。
鴻池の目の前にはビル程の高さもある空間。そしてその空間を上から下まで覆い隠す天幕めいた布。何かがその向こうに隠されているのは明らかだった。
「まあ、僕が『ウィグナーの友人』を演じてみせても反応するんだ。本物が宇宙に居るとなると当然か」
自分以外は誰も居ない部屋で鴻池は呟く。
「センセー! まだ室内にいらっしゃるんですか?」
そんな鴻池の頭上に甲高い緊張に上ずった女性の声が再生された。船長のサラだ。
「やあ、サラ船長」
「『やあ』じゃありません! 警報はその部屋も鳴ってますよね? 警告灯もばんばん光ってますよね?」
サラの声は暢気な口調で返って来た鴻池の返事に更に声だかになる。
「はは……ごめんごめん。SSS8が警報を発してるということは、いざとなったら、こいつも逃さないといけないだろ?」
「それは自動シークエンスが働くようになっています! その区画は日本モジュールにあるんですから、そのことはセンセーが一番よく知ってらっしゃいますよね?」
「そうだね。いざとなったら、この部屋ごと、海に落とす手はずだね。だが、宇宙怪獣が来ている今こそ。こいつを見ておきたい気もしてね」
鴻池が頭の中を刺激する為か、単に考え事でむずがゆくなったのか。ぽりぽりと頭を掻きながら答える。
「……ご心情は察しますが……船長として、人命は最優先だとしか申し上げようがありません」
「まあ、確かに。ここで、こいつを眺めていても。何も起こらないけどね。ああ、君は怒ったね」
「はい? 何ですか? センセー」
「ああ、ごめんごめん。元の原語の音に依存する駄洒落は、翻訳機では巧く他言語に処理できないね。いやあ、翻訳家は偉大だね」
鴻池は参ったと言わんばかりに、今度はぼりぼりとそのぼさぼさの頭を掻いた。
「もう、センセー! いいですか! 船長として命じます! 今すぐに、脱出用帰還船に乗って下さい! 宇宙で遭難しても、助けは来ないんですからね! いざという時の為に、いつでも地球に脱出できるようにしておいて下さい! その区画ごと地上に落とされても、中の人間の命はないですからね!」
「はいはい。てか、よく僕がここに残っていることに気づいたね」
「何処に居ても、センサーが感知してくれます! センサーに感ありなら、こっちに警報が届きます! この人逃げ後れじゃないですかってね! キューポラで暢気にしてようが! 研究室でのんびりしてようが――です!」
「別に『のんびり』は――してるか?」
鴻池が暢気な口調で、のんびりとあくびをしながら応える。
「もう! ロシアの大佐様だけでも、手間がかかるってのに! センセーも、早くして下さい!」
「ロシアの? イワンくんが、何か?」
鴻池が何もない空間を見上げる。
「イワン大佐は、暢気にキューポラでキグルミオンの発進見学と、洒落込んでましたよ!」
「あっちも洒落てたかい?」
「『あっちも』? 『洒落』? 何ですか?」
「ああ、また翻訳の関係で巧く伝わらないね。気にしないでくれ、立派なおっさんになると、つまらない駄洒落に固執するんだ。分かった。今から、脱出ポッドに向かうよ」
鴻池はようやくガラスの前から身を翻した。
「……」
鴻池はそれでも最後まで顔を振り返させ、視線だけは天幕の向こうに残しながらドアへと向かう。一蹴り二蹴りと床を蹴り、その身を宙に浮かせてドアへと向かったる
「イワンくんも気になっていたか……単なる個人的な興味なら、いいんだが……」
鴻池はドアの前で一度立ち止まる。
「いやいや。いい大人が、女子高校生に個人的な興味はよくないな……はは……」
鴻池は最後まで暢気なことを口にしながら、
「さて、急いで脱出ポッドに向かいますか」
のんびりとした足取りでドアの向こうに消えた。