十六、明鏡止水! キグルミオン! 2
「出るか……」
宇宙に浮かぶ粒子加速器――スペース・スパイラル・スプリング8。その一角で板東に文字通り肩を並べられる程の大男が一人呟いた。
男は宇宙船の外を伺うことができるキューポラの中でその巨体を浮かせていた。
通路の壁に設置されていたそのキューポラ。男の背中の向こうに慌ただしげに駆ける各国のクルーの姿が現れては消えていく。
キューポラをほぼ占領する形で浮かぶ大男に誰も苦情を入れたりはしない。廊下には緊急避難を告げる警告灯がけたたましく瞬いており、誰もキューポラで暢気に外の様子を見学しようとは思わなかっただろうからだ。
実際頭上では避難を呼びかける機械的な音声も流れており、その合間に冷静だが張りつめた声でサラ船長の指示が矢継ぎ早に出されていた。
「うるさい連中だ」
男がその音に軽く眉間にシワを寄せてみせる。
男の作業服の両肩には国旗が縫いつけられていた。上から白青赤の横島のストライプに染められた国旗が、宇宙でのつなぎの作業服の肩で踊る。
男の筋肉で盛り上がった肩はその国旗を張りつめ、また逃げ惑う他の国のクルーのそれよりも高く盛り上がらせている。
男の自信と誇りの表れのように、自ら鍛えた筋肉で内から支え、高らかに盛り上た国旗をその男は外に向かって突き出す。
ロシアの大佐イワン・アレクセイヴィッチ・ジダーノフだ。
「……」
イワンはキューポラの窓から静かに宇宙を見つめていた。
その大佐の視線の先で何かがきらめいた。
方向が分かっていなければ、またそれでも常人の視力なら、見落としていたかもしれない。
それはそれほど小さな点で、自らは光っていなかった。SSS8から出たその光は、地球の光も受けてようやく輝いている。それほど茨状発光体輝く今の宇宙では、弱々しい光だった。
「ふん……遅い。もっと早く出れたはずだ」
だが難なくその光の点を見つけてイワンが呟く。
一瞬緩みかけた口元を、イワンが慌ててぎゅっと閉め直した。
イワンの後ろは相変わらず他の国のクルーが駆け巡っている。宇宙で浮かぶその身では、実際には駆けることはできずに皆が浮かんでいた。
壁や床を蹴って少しでも早く移動しようとするその姿は、水族館の壁に邪魔されながらも懸命に泳ぐ魚達を彷彿とさせた。
「……」
イワンはキューポラから振り返らず、ガラスに写ったそんな人々を見つめる。
その目にはガラスの向こうを懸命に泳ぐ魚を愛でる愛情の光ではなく、ガラスに写った必死に逃げ惑う人々をあざける軽蔑の光が浮かんでいる。
「逃げ惑うことしかできない連中よりも、立ち向かっていくあいつの方がまだましか……」
イワンがもう一度ガラスの向こうに目を凝らす。
SSS8から出た小さな光の点は、ひとまずその壁から離れていく。
「移動速度は、まあ……よしとしてやるか……」
SSS8を離れるに連れてその光はか細くなり、流石のイワンでももはや追い切れないようだ。
イワンはようやく窓から目を離すと、ぬっと手を伸ばした。
イワンがキューポラの壁に設置されていたモニタに手を伸ばす。
イワンがモニタを操作するとそこに小さな着ぐるみの姿が映し出された。
モニタにこそ小さく映っているがそれはキグルミオンのアクトスーツ。地上のビル程の高さもある巨大な着ぐるみが、宇宙のスケール感を測る対象物のない世界では小さく見えた。
イワンは満足げにうなづくと左手の手首を口元に持って来た。
そこにマイクがあったらしい。イワンは己の左の手首に向かって話しかける。
「私だ。今から戻る。ふふ……何をしているかって? 何、どうせなら、直で見てやろうと思っただけだ。これぐらいの時間のロス。どうということはない」
イワンがもう一度窓の外を見る。
もう星の光に紛れて、移動するキグルミオンの光の点は分からない。
「ところで〝あれ〟はどうだ? 何か変化があったか?」
イワンが左手首に呼びかけ、全身の動きを止めて返答を待つ。
「そうか……何かあったら、すぐさま連絡しろ……最優先だ……いいな……避難など後回しだぞ……」
イワンが声をひそめてマイクに語りかけると、
「ちょっと! イワン大佐! 第一級避難命令が出てるんですよ! いつまでそんなところに居るつもりですか!」
先まで皆に避難を告げていたサラの声がイワンに向かってがなり立てられた。
「ふん……俺は、逃げ後れるような間抜けではない……サラ船長殿……」
イワンはサラの声を無視するようにその声が聞こえてきたスピーカに振り返るとことなくキューポラの壁を蹴る。
イワンはキューポラから廊下へと出る間際にもう一度振り返ると、
「そっちも間抜けは曝すなよ、着ぐるみ……」
そのガラスの向こうの宇宙に向かって呟くと廊下に出ていった。