十三、勇猛精進! キグルミオン! 7
「……」
内部から爆発し四方に肉片を飛び散らせる宇宙怪獣。その様子を血まみれのミッションスペシャリストが無言で見上げる。
イワンの身を宇宙怪獣の血が染めていた。真空の宇宙に飛び出したそれは、宇宙服の表面ですぐに蒸発し乾燥した。すでに拭っていたバイザー以外の血の跡は、かさぶたのように乾いた貼りついている。
拳を突き上げた巨大な猫の着ぐるみを中心に、宇宙怪獣の肉片が宇宙の向こうに流れていく。
イワンはその様子を見入られたように見上げ続ける。イワンの足下では救助にあたった有人宇宙船のSTVが、その回転を完全に停止させていた。
イワンの居る場所のちょうど反対側では、二体の子供用のような大きさの宇宙服がSTVに取りついていた。ユカリスキーとリンゴスキーだ。二体のヌイグルミオンが、STVの外壁についていた窓から中をのぞいていた。
小さな宇宙服の主は二体とも電車で車窓にしがみつく子供のように、楽しげに後ろに足を曲げて振りながら窓から中をのぞいている。そして窓の向こうからわずかに手を振り返す美佳の姿が見えた。その後ろをやる気もなさそうに漂うナマケモノのヌイグルミの姿も見える。
「イワン大佐。私よ、サラよ」
イワンの耳元にSSS8の船長の音声が不意に再生された。
「ああ……どうした、船長?」
イワンが吾を取り戻したように、びくっと身を震わせてその声に応える。
「『どうした』じゃないわ。こっちが聞きたいわよ。どうしたの? さっきから止まったままよ」
「宇宙怪獣の体液を浴びた」
「――ッ! 大丈夫? 宇宙服に何か異変が?」
「いや――」
イワンはバイザーの中でサラに応えがなら左手を上げる。左手の手首の位置にそこに何か黒い塊がこびりついていた。
「大丈夫だ。宇宙服は問題ない。すぐにバイザーも拭ったから、視界も確保できている」
「そう。分かってると思うけど、宇宙怪獣は言わば究極の外来種。今こちらに来てる生物学者を集めてチームを作らせるわ。彼彼女らにチェックと助言を受けて。念入りに洗浄してから、宇宙服を脱いでもらうことになると思うけど。退屈は我慢してね」
「そうか……そうだな……まあ、動けばすぐに剥がれていく。さすが真空中だな。水分がすぐに蒸発した。洗浄はそれほど時間をとられないだろう」
イワンはサラに応えながら、左の手首の塊を右手でつまみ上げようとした。宇宙服の分厚い布でできた指先でイワンは苦労しながらそれをつまんだ。
乾いた血でその塊は手首に貼りついている。
それ以外の血のりは、イワンの言葉通り宇宙服が動く度に宇宙の向こうに剥がれ漂っていく。
「そう? とにかく、ありがとう。あなたのお陰で、STVは回転を予定より早く回転を止めたわ。STVの中の桐山博士達も、無事だって通信で確認済みよ。このカナダアーム9へのドッキングは、危険だから諦めるわ。別の区画のロボットアームに誘導したいの。イワン大佐。疲れてなかったら――」
「……」
イワンはサラの声を聞いていないのか、じっと手元に視線を落としていた。左手にこびりついた塊を、右手で慎重につまみ上げるとゆっくりとはがしていく。
「STVは姿勢制御モジュールがいかれちゃってるから、自力で移動させるのは不安ね。幸いキグルミオンが出てるから、ミズ・ヒトミに引っぱっていってもらうおうと思うの――」
「……」
イワンは尚も続くサラの説明に応えず、引きはがした塊をまじまじと見つめた。
「あなたには、その誘導をお願いしたいんだけど? イワン大佐。宇宙怪獣の体液は、作業の支障になりそう? イワン大佐? イワン大佐! 聞いてる?」
問いかけにイワンが応えず、サラがじれたようにイワンの名を呼ぶ。
「ああ、聞いてる。何だ?」
イワンがようやく応えた。この時ばかりは自分の腕ではなく、バイザーの中でサラの声に集中したようだ。目を細め耳をそば立てるように首を傾けた。
「それは聞いてないって返事よ、イワン大佐」
「そうか」
「どうしたんですか?」
イワンとサラの会話にヒトミの声が割り込んで来た。
イワンが驚いたように顔を上げると、
「宇宙怪獣、倒しましたよ、イワンさん」
いつの間にか近づいてきていたキグルミオンの巨体が、その眼前にぬっと現れていた。
イワンはぎょっと目を剥くと、慌てたように腰に右手を持っていく。
「どうしたんですか、イワンさん?」
「いや、何でもない」
イワンは応えながら腰を斜めに引いた。
「ん? どうしたんですか? 何か驚いたようですけど?」
ヒトミの声とともにキグルミオンの巨大な顔が不思議そうに傾く。
「急にそんな巨大な馬鹿げた顔が、目の前に来たら誰だって驚く」
「むむ。この愛くるしい顔を驚くだなんて。それにこんな大きなものが近づいて来て気づかないなんて。イワンさん、ミッションスペシャリスト失格ですよ」
「知るか。船長と話をしていたんだ」
イワンがヒトミに向き直った。その時にはもう手元は空になっていた。代わりに宇宙服の腰につけられていたポーチ状のポケットが、わずかに膨らんでいた。
「ミズ・ヒトミ。そうなの。大佐とも話してたんだけど。STVを引っぱっていって欲しいのよ。別の区画にあるロボットアームでつかまえて、桐山博士達にはSSS8に移ってもらうから。誘導はイワン大佐にしてもらうわ」
「了解です、サラ船長」
「イワン大佐、いいわね?」
「いや、俺は……いや待て……ここから一番近いロボットアームは、ロシアモジュールに近いな……」
「そうよ。ミッションが終了したら、そこから戻ってもらったらいいから。ああ、洗浄や検査もできるように、ちゃんとこちらから専門家をそっちに派遣しておくから」
「分かった、サラ船長。行動に支障はない。やろう。着ぐるみ、STVを抱きかかえろ。誘導してやる」
イワンがヘルメットの中で首を右から左に振った。それで方向を指示したつもりらしい。イワンはそのまま左手をじっと見つめる。
「あっちですか?」
ヒトミがイワンと同じ方向を向いた。
「そうだ」
イワンはそのことを確かめると右手をもう一度腰にやった。そして膨らんでいるポーチを、ヒトミの視線の届かないところで触って確かめる。
「ウィッス! それと着ぐるみでもいいですけど、私ちゃんと仲埜瞳って名前がありますよ、イワンさん」
「知るか。名前を覚えてもらいたかったら、さっさと働け」
「ああ、酷い! ぶーぶー!」
ヒトミが不平を口にしながらも、背中のバックパックから火を噴かせて上昇していく。ヒトミは体を大きく旋回させることでSTVに並行しようとしたようだ。
ヒトミの体はSTVの向こうでゆっくりと身をひるがえす。
その様子を見上げたイワンは左手をバイザーの前に持っていった。その手首に埋められていた機器類にイワンが右手を伸ばす。
イワンが幾つかボタンを押すとそこに何やらロシア語の表記が浮かんだ。
イワンは『шифр』と浮かんだ表示に満足げにうなづくと、
「私だ。暗号回線、拾えているな……」
宙を旋回するキグルミオンを目で追いながら、静かにどこかに向けて通信を始めた。
改訂 2025.09.16




