十二、一意専心! キグルミオン! 6
「これは一体……何だ……何の冗談だ……」
イワン・アレクセイヴィチ・ジダーノフ大佐はエアロック内でつぶやいた。
小さくそれでいて聞こえるようにイワンは声を漏らす。イワンの声はその顔を覆った宇宙服の外部スピーカから再生された。
空気を抜いていく静かなモーター音が響く船内。なくなっていく物理的な空気と相反するように、心理的な空気は増していくようだ。
イワンが苦々しげに唇の端を痙攣させた。船外活動を待つこのミッションスペシャリストは、ヘルメットの中で首を振り独り言を聞かせた相手にじろりと見る。
「冗談ではありません! 気を引き締めて下さい!」
屈強な体躯を誇るロシアの大佐に、猫の着ぐるみが応えた。猫の着ぐるみの中から聞こえてくるのは、もちろんヒトミのくぐもった声だ。
ヒトミはイワンと肩を並べてエアロック内での減圧待ちをしている。空気が抜けていくに連れて、わずかにキグルミオンのキャラスーツが膨らんでいった。
「分かっている! 貴様にそんなことを言われる覚えはない!」
イワンは苛立ったように声を荒げる。
そんなイワンの様子に、別の二体の宇宙服が驚いたようにそれでいて楽しげに飛び上がった。それはイワンの巨躯を収める宇宙服よりも、遥かに小さい。まるで子供用だ。
ヘルメットまで子供用のように小さい。その中でやはり子供のようにつぶらなボタンの瞳が、船内の光に目を輝かせる。
宇宙服を見にまとったヌイグルミが、狭いエアロックをはしゃいで動き回った。
コアラのヌイグルミオンのユカリスキーと、ウサギのそれのリンゴスキーがエアロック内を飛び回る。まるで遠足に出かけた電車内の、幼稚園児のようにそこら中を飛び回った。
「脅かさないでください、イワンさん。この子達が、ここぞとばかりに楽しんじゃいますよ」
「緊急の船外活動の手伝いが……着ぐるみに、ヌイグルミだと……」
今やイワンの体は全身が細かく震えていた。
そのイワンに子供がまとわりつくように、二体のヌイグルミオンが首を傾げながら見上げる。何故イワンが怒りに震えているのか分からずに、不思議そうにのぞき込んでいるように見える。
「うっとうしい! 近づけさせるな!」
「仕方ないですよ。この子達は、基本美佳の言うことしか聞きませんし。それ以外はいつも自由に動き回ってますから。それにこのエアロック内はとても狭いですし」
「おのれ……」
イワンがまたも唇を震わせる。そしてもう一度二体のヌイグルミオンに目をやった。
ユカリスキーとリンゴスキーは、イワンにまとわりつくのに飽きたのか、二体ともこちらに背中を向けていた。二体で肩を並べて、エアロックの出口を興味深げにかがみ込んで見ている。外に出るのが待ち遠しいのか、二体して体をうずうずと揺らしていた。
「サラ船長! 我慢ならん! エアロックを開けろ!」
イワンが天井に向かって吠えた。
「ダメよ、イワン大佐。まだ減圧が終わってないわ。もう少し待って」
その天井からサラの声が返って来る。苛立つイワンをなだめるように、諭すような抑えた口調だった。
「元より、俺一人で十分だ! 何故こんなふざけた連中をサポートにつける?」
イワンの言葉にヌイグルミオン達がもう一度振り返る。
「人命のかかった緊急ミッションなのよ、イワン大佐。人手は多い方がいいわ」
「素人の着ぐるみに! おもちゃのヌイグルミが、『人手』なものか!」
「むむ! 酷い言いようなのです! こういう時は、猫の手でも借りたいと言うじゃないですか?」
ヒトミが猫の着ぐるみの両手を、イワンに向かって突き出してみせた。
自分達も手を貸すと言わんばかりに、コアラとウサギのヌイグルミが宇宙服の手をこちらもヒトミに習って突き出した。
「ふざけるな!」
着ぐるみと宇宙服姿のヌイグルミに揃って手を差し出され、イワンがヘルメットの中で唾を飛ばして声を荒げる。
「ゴメンなさいね、イワン大佐。あなたの的確で素早い準備に即応できるのが、プリブリーズを必要としないキグルミオンとヌイグルミオンだけなのよ。ホント、ゴメンなさいね」
あまり謝意を感じさせないサラの応えに、
「く、くそが……」
イワンが両の拳を握って歯ぎしりまでしてみせた。
イワンはもう一度ヒトミの着ぐるみ姿の全身を、上から下まで射殺すような視線で睨みつける。
「何ですか? さっきから何を苛々してるんですか?」
「急激な運動を伴うエクササイズ・プリブリーズを終わらせて、重厚な宇宙服を装着……更にこの状態で純度100パーセントの酸素を吸うプリブリーズを、もう一度行わないと宇宙には出られない……そんな苦労をして、最後のエアロックの減圧待ちをしていたら……入って来たのは、お気楽な着替えただけの着ぐるみと、二体のヌイグルミだぞ……これが苛立たずにいられるものか……」
「むむ。そこら辺は、私は何とも言えないのです。でもこのキグルミオンのキャラスーツなら、これを作ってくれた久遠さんを助けられる。私は何も遠慮する気はないのです」
「ぐ……俺の邪魔だけはするなよ……」
「了解です!」
「ふん……」
イワンが怒りを押し殺す為にかぐっと奥歯を噛み締めた。
「イワン大佐。ミズ・ヒトミ。可愛いヌイグルミさん達。減圧終了よ」
そんなイワンの頭上でサラの声が再生される。
「美佳……久遠さん……待ってて下さい――」
サラの声に一人つぶやくヒトミの向こうで、
「今、助けにいきます……」
エアロックの鉄の扉がわずかに残った空気を漏らしながら静かに開いていった。
改訂 2025.09.12