十二、一意専心! キグルミオン! 4
「……」
ヒトミの提案に板東が無言で振り向く。
黙って振り向いたのは板東だけではなかった。同じように鴻池も振り返る。
「何ですか? 私何かおかしなこと言いましたっけ?」
そんな二人にヒトミがきょとんと聞き返す。
「いや、多分皆が一瞬それは考えている」
「ああ、そうだね」
「じゃあ、何で誰も何も言わないんですか? 私なら、大丈夫ですよ。いつでも出れます」
板東と鴻池の答えに、ヒトミが苛立たしげに一歩前に身を乗り出す。
「キグルミオンはデリケートな状態だ。宇宙怪獣との戦闘以外に、おいそれと出す訳にはいかない」
「ウチが出すと言っても、他の国が納得しないだろうしね」
「ええ! そんな!」
板東と鴻池の再びの答えにヒトミが声を荒げた。
「……」
ヒトミの言葉を避けたかのように、板東が前を向きなおった。板東達の視線の向こうでは、サラ達が怒号めいた指示の出し合いをしている。
そのサラが板東の視線を感じたのか、ちらりとだけこちらに視線を送って来た。
いや、実際は板東の視線を感じたのではなかったようだ。サラの視線は実際はヒトミ達の背後のドア付近に向けられていた。そこにはモニタが設置されており、今は何やらせわしなく動く男の姿を見る映し出していた。
今まさに通信のつながったモニタにサラが振り返り、板東が真っ先にそれに続いた。
「そうだ。あんなおもちゃに、頼る必要などない」
モニタに映った男は現れるや否やそう口にした。言語がロシア語のそれは、同時にヒトミ達の耳には日本語に翻訳されて届く。
モニタの中ではイワンが肩から上だけを映していた。イワンは先端にホースの付いたマスクを口元につけている。実際元のロシア語は少々くぐもったように響いていた。
そしてその息は少々乱れている。何かの運動をしながらマスクで息をしているようだ。
「イワン大佐……船外活動の準備に入っているのか……」
板東がイワンの様子につぶやいた。
「そうだ。自力でろくに有人飛行もできなかった国は、さすがにのろまだな。まだそんなところに居るのか? 俺はもうプリブリーズ――窒素の追い出し中だ」
「『窒素』? 『追い出し』? 何のことですか?」
イワンの板東への答えにヒトミが鴻池を振り返る。
「宇宙服の中の空気は、地上の一気圧を維持できないんだ。宇宙服の強度からね。仮に地球と同じ一気圧にすると、宇宙服が膨らんでしまって作業にならない。だから宇宙服の中の気圧を下げて、空気ではなく酸素だけで満たす。これで一気圧下の空気と同程度の酸素分圧を達成させている。通常気圧が下がると、体内組織の中に元々とけ込んでいる窒素が微小な気泡になってしまい、毛細血管を詰まらせて減圧症を引き起こしかねない」
鴻池がヒトミに振り返り答えた。
「ほぉえぇ……」
「だから宇宙服を着て船外活動をする時は、体内から窒素を追い出さないといけない。純度100パーセントの酸素を吸うことで、それはできるんだけど、それだけじゃ本当に時間がかかる。なるべく早く窒素を体内から追い出す為には運動しながら、純酸素呼吸をするのが一番なんだ。今イワンくんがやっているように、自転車漕ぎでもしながらする――『エクササイズ・プリブリーズ』が今も昔も主流だ」
「へぇ……あれ? じゃあ、助けてくれるんですか? イワンさん」
ヒトミがぱちくりと瞬きをしながらモニタにもう一度目を戻す。
「何かおかしいか? 俺はSSS8のミッションスペシャリストだぞ。当たり前だ」
「むむ! 誤解してたのです! イワンさん、いい人――」
「だから、貴様のおかしなおもちゃなど不要だ。引っ込んでいてもらおう」
「ああ! やっぱりやな人です!」
一瞬顔をほころばせかけたヒトミが両の目尻をつり上げた。
「ふん! 船長! 見ての通りだ。俺は誰よりも早く準備が整う。宇宙服の装着もすぐだ。おもちゃになど、頼る必要はない。このままプリブリーズをしながら、指示を待つ」
「ロシア式の宇宙服が、とても素早く着用できることは認めるわ、大佐。あなたが誰よりも早く、船外活動の準備を始めていることもね。プリブリーズも誰よりも早いわね――」
サラが頭が痛いと言わんばかりにこめかみを押しながら応えた。
「だけど、キグルミオンが居る今。あの巨体はそれ自体がメリットよ。HTVの回転を抑えるには、この利点を生かさない手はないわ。キグルミオンを使う方向で、救出プランを練った方がいいわ」
「一国にだけ、宇宙での人型兵器の実績を積ませる気か?」
「あーっ! キグルミオンは兵器じゃないですよ! 着ぐるみヒーローですよ!」
ヒトミがモニタに詰め寄る勢いで前に出た。
「詭弁だと言ってる。誰も信じない」
「だったら今から証明してみせます! 美佳達を私が助けてみせて!」
「巨大人型兵器でSTVを止めてか? 格好のデモンストレーション――示威行為だな。増々威圧的で、軍事的だ」
「な、ななな……」
イワンの言いようにヒトミが両の拳を握り肩を震わせる。
「決まりだな。STVの救出には、我々ミッションスペシャリストが行う。おもちゃのヒーローはそこで指をくわえて見ていろ」
「なーっ!」
イワンの言葉にヒトミが目を剥いて抗議の声を上げる。
「ふふ……」
だがイワンに最後は鼻で笑われて、
「ぐ……」
ヒトミは悔しげに唇をわななかせた。
改訂 2025.09.11
作中、宇宙服のプリブーズに関しましては、以下のサイトを参考にしました。
http://iss.jaxa.jp/eva/eva03.html