十一、確固不抜! キグルミオン! 10
「……」
男は坂東に伍する体躯を、ドアの入り口を封鎖するように立たせていた。
氷のように冷たい瞳。芯まで凍りつくような視線を、男は入って来た三人に向ける。
男の背中の向こうは待合室らしい。もう一枚の壁が男の背後にあり、そちらにつけられたドアは固く閉ざされていた。
「……」
坂東はその男の視線を跳ね返す。凍えるような視線を溶かすような、対極的な熱のこもった瞳の光で跳ね返す。
「……」
そんな坂東に男は笑ったようだ。ナイフで切れ目を入れたかのように薄く唇を広げる。
「Привет…」
男はそのほとんど開かない口で何やらつぶやいた。
「えっ? 何ですか? 何語ですか?」
ヒトミが坂東と男を目を慌ただしく、瞬きさせて交互に見る。
「ロシア語だ。言ったろ。公用語の一つだ」
「へぇ……初めて生で聞きました……」
ヒトミが坂東の説明に感心したようにつぶやく。
「Японский….」
男はそのロシアの大地のように冷たい視線のまままた何やらつぶやいた。
「ああ、そうだよ。だから、こちらの言葉に合わせてくれるかな。君ならできるだろ? この三人で、ロシア語できるのは僕だけでね」
鴻池が男と坂東とはまた違う目の光で笑みを浮かべる。
「そうですか。鴻池博士。まあ、用はありませんよ。私はもう帰るところですから」
男は鴻池にそう告げると前に出た。
入り口でかち合ったヒトミ達と男は互いの進路を塞いでいる。男はそのことを気にした様子も見せずに、自分の進路だけ見ているように真っ直ぐ進む。
無重力下で力強く足を蹴った男は、その巨躯をヒトミにまるでぶつかせるように進ませた。
「へっ……」
「仲埜!」
驚きその場で固まるヒトミの手を坂東が引いた。ヒトミの体が無重力にかかわらず急速に引っぱられる。坂東はとっさにもう片方の手でドア横の手すりをつかみ作用・反作用の法則に負けずにヒトミの体を引いた。
だがわずかに間に合わなかった。
男の肩がヒトミの肩にぶつかる。いや男の肩から下がヒトミの肩の上に当たる。
「痛っ!」
「失礼……」
男は軽く跳ねるヒトミに、一瞥だけ送るとそのまま鴻池の横もすり抜け通路に出る。
「なっ! もっと、しっかり謝って欲しいです!」
「止めろ、仲埜」
ヒトミが怒りに身をひるがえすと、坂東がその握ったままの手を引っぱり引き止めた。
「ふん、坂東大尉。いや、一尉か」
男は軽く鼻を鳴らすと通路で振り返る。
「俺は大尉でも、一尉ない」
「そうかね。それなら、私も訂正を願おう。我が国の言葉は、ここの公用語の一つではない」
「……」
男の言いように坂東がぴくりとまぶたを痙攣させる。
「宇宙での公用語の第一だ。宇宙開発においても、理論物理学においても、我が国の貢献を考えれば当然のことだ」
「公用語に第一も二もない」
「そうかな? 少なくとも、ロシア語と英語以外は――」
「確かにフランス語と中国語しか、滅多に聞かないな。まあ、たった今。ヒンドゥスターニー語を、ネイティブから聞いてきたとろだがな」
「……」
坂東に途中で遮られ、男はその一瞬だけは氷のような瞳を一瞬で燃え上がらせる。
「……」
「……」
坂東と男がしばし睨み合う。火炎と吹雪が互いを嘗め尽くさんとするかのように呑み合い、火花すら飛び散る勢いで二人の大男は互いの視線をぶつけた。
「ふ、宇宙は久しぶりだろう、大尉……足下に気をつけたまえ……」
男は最後にもう一度薄い笑みを浮かべると、威嚇するような甲高い音を立てて床を蹴る。男の身はその勢いで横に滑り、その冷たい笑みを見せつけながら廊下の向こうに消えていく。
「どうも……」
こちらに背中を向けて去っていく男に坂東がぶっきらぼうにつぶやいた。
「何なんですか! あの人! ぶーぶー!」
ヒトミが遠ざかっていく男の背中に唇を尖らせた。
「ロシアの大佐殿だ」
「大佐ですか? 宇宙飛行士じゃないですか?」
坂東の答えにヒトミが唇を尖らせたまま振り返る。
「軍に所属したまま宇宙飛行士に選抜される――他の国では普通のことだ。昔は宇宙の過酷な環境に適する為には、軍人のような不屈の精神と強靭な肉体を併せ持った人材が必要だったしな。まあ、何より本当に命を賭けての任務だったこともあるが……だが、今軍人を宇宙に送り込む目的は少し違うな……」
坂東は最後は濁すようにつぶやく。
「何ですか?」
「それは、後だ。今は人を待たせている。行くぞ」
坂東があらためてドアの向こうに向き直る。
「そうだね。野暮な話は、後後」
一人先に奥のドアの前に立っていた鴻池がドアをノックする。間を空けずにドアの向こうから返事があった。
「ここの責任者。船長さん。各国の持ち回りで務めるだけど、今はある意味――」
鴻池はドアを開けながらヒトミに振り返ると、
「〝アタリ〟の人だね」
いたずらな笑みを意味ありげに浮かべてみせた。
改訂 2025.09.08