十 天衣無縫! キグルミオン! 6
ヒトミは着ぐるみ一つで宇宙に飛び出した。
キグルミオンのアクトスーツは、一番機の推進モジュールに下から押されるようにして、今や地球の高軌道上を周回していた。ヒトミをまだ内包していないキグルミオンは、力なくうなだれるように首を傾けていた。
「キグルミオン! く……距離感が……」
ヒトミは飛び出した矢先にそうつぶやく。
比較するもののない宇宙空間。見慣れたはずのキグルミオン。
比べるものが何もない宇宙では、ヒトミですらその大きさがうまく把握できないようだ。
慌てたようにキグルミオンとの実際の距離を測らんとしてか、上下左右のない宇宙空間でヒトミは右に左に上に下にとあちこちに顔を向けてしまう。
「仲埜! 落ち着け! 何をやってる!」
「だって、隊長! 距離感が!」
キャラスーツの中で響いた坂東の声にヒトミがやはり慌てた声で応える。
「距離のデータは頭に入ってるはずだ! 慌てず落ち着けば大丈夫だ! 下手に暴れると、軌道が変わって自分からぶつかりにいくぞ!」
「だって……」
「分かってるな? リニアチャックのスライダーを足場にする! その後わずかに開けたエレメント――噛み合わせ部分から中に入る! もちろんキグルミオン本体よりも、スライダーがこちらに出っぱっている! 距離感をつかみ損なうと、衝突する可能性もあるぞ!」
「手を伸ばしたら、届きそうにも見えるし……まったく見当違いの、手の届かないところにあるようにも……」
ヒトミが猫の着ぐるみ然としたキャラスーツの面を何とか前に押しとどめた。そのまま右手を目の前に突き出して、何もない空間を無為につかむ動作を繰り返す。
「しっかりしろ! 本当に激突するぞ! 最後に頼れるのは己だけだ!」
「く……」
ヒトミの右手が文字通り虚空をつかむ。
「ふふん……隊長、忘れてる……ヒトミは一人じゃない……」
「美佳!」
ヒトミの耳元で美佳の声が再生された。
「……そう、私……通信にタイムラグがあるから、手短かかつ一方的に……ユカリスキー、ゴーッ!」
美佳の声が終わる前にヒトミの脇から影が飛び出した。
宇宙服を身にまとったコアラのヌイグルミが、ヒトミに手を振りながら前に飛び出す。命綱を後ろに尾を引くように風もない宇宙でたなびかせ、ユカリスキーがふわふわとヒトミの前に踊り出た。
ユカリスキーはそのままくるりと身を回転させた。キグルミオンのアクトスーツに背を向けヒトミに正面から向き直る。
「ユカリスキー?」
「比較するものがないから、大きさが分からない……パニックになる……ちっちゃ可愛いユカリスキーにお任せ……」
タイムラグによる受け答えの間を今度も諦めたのか、美佳が一方的に通信を告げてくる。
そしてまるでその美佳に、今まさに抱きかかえられているかのように、ユカリスキーが両の手足を投げ出した。
ユカリスキーとキグルミオンの姿がヒトミの目の前で重なる。
「――ッ! 今!」
その様子にヒトミがヒザを折り曲げた。
ヒトミのヒザがリニアチャックのスライダー部の端をかすめた。
音の響かない宇宙空間。無音でヒトミの着ぐるみ然としたヒザがかすかに揺れる。
だがヒトミは折ったヒザから下で、衝撃を吸収するようにリニアチャックに無事着地した。ヒトミはそのまますくっと立ち上がると手を伸ばす。
先に背中を向けてアクトスーツに向かったユカリスキーが、己は背中からスライダーにぶつかり跳ね返っていた。
宇宙空間で慌てたように、それでいてどこか楽しげに手足をばたつかせて浮かんでいくユカリスキー。その足をヒトミががっしりとつかむ。
「ありがとう! 美佳! ユカリスキー!」
「……ふふん、お易い御用……」
ヒトミの無事を確かめる為か、今度はタイムラグ相応の待ち時間の後に美佳の声が返ってきた。
「大丈夫か、仲埜?」
「はい! ユカリスキーが目の前に来た瞬間に、何だがピントが合うみたいに距離感が分かりました! さすが宇宙! 普通のことが、普通じゃないです!」
ヒトミがスライダーを蹴った。自身の背中のそっくりのアクトスーツ。そのリニアチャックに向かって宇宙を飛ぶように前に出る。
ヒトミがスライダーを一蹴り二蹴りすると、エレメント部にすぐにたどり着いた。
その耳元に久遠の声が再生される。
「リニアチャック、最小解放。ヒトミちゃん、いい? 少しだけ開けるから、素早く入ってね」
「はい! いつでもどうぞ!」
ヒトミが応える間にも、ヒトミ達の乗ったリニアチャックがひとりでに下がっていく。
そしてヒトミの目の前で金属がかみ合うエレメント部がV字型に開いていく。
ヒトミがそのわずかに開いた開口部にキャラスーツの大きな頭をねじ込むようにして中に入っていく。最後は背中と足をユカリスキーに押されながらヒトミの姿がリニアチャックの向こうに消えた。
ユカリスキーが小首を傾げて様子を確かめるような仕草を一つしてからスライダーを蹴った。
コアラのヌイグルミが距離をとったちょうどその時、
「――ッ!」
力なくうなだれるように首が傾いていたアクトスーツの顔が、魂でも入ったかのように突如きっと上げらた。
「あれね……」
巨大なキグルミオンのアクトスーツに魂を入れたヒトミ。そのヒトミが見上げた先に、
「あれがSSS8……」
やはり距離感のつかみにくい螺旋を束ねたような宇宙ステーションが浮かんでいた。
その背後から無数の赤い光の群れに迫られながら――
改訂 2025.9.01