八、気宇壮大! キグルミオン! 16
男は軽やかに鉄製の床を蹴った。文字通りの軽やかさだ。
その証拠に床の次に男が蹴ったのは壁だったからだ。壁と言っても丸い。丸いチューブ状の空間に床を敷いた場所のようだ。
男は壁を蹴ると身を横にひるがえす。その動きに男の白髪が混じりの髪が軽く揺れた。その短いが蓬髪めいた手入れの行き届いていない髪は、重力に縛られていないかのように千々に揺れる。
そう、男は重力に囚われていないようだ。男は水中を行くかのように、金属製の壁に囲まれた空間を飛んでいく。
男は底の厚いブーツを履いていた。その身にまとうのは見るからに丈夫な布でできた作業着だ。インカムを頭部につけ、その手には情報端末を抱えている。
男のいる空間は前後に長く伸びた軽く湾曲した空洞が、どこまでも続いている。目を引くのはその空間に沿って床に這うように張り巡らされた、大人二人がかりでも抱えられそうにない直径の金属製の管だ。
それは配管や送電線の類いではない。その証拠にその管はこのチューブ状の空間の中央に鎮座しており、配管そのものは別途に壁際に這っていた。
実際男はこの管の方の何かを確認しているようだ。更に床を蹴ると己の視界の下を流れていく管から目を離さずに宙に浮いていく。
管は床に沿って湾曲している。
男はその光景に手に持った情報端末を重ねるように前に出す。端末につけられたカメラがその管をとらえた。それと同時に同じような管が続く光景に、いくつもの数値が重なるように表示される。
男は現れては消えていくその数値に目を配りながら、宙を浮かんで流れるように飛んでいく。
男の目が鋭く細められる。管の継ぎ目に来る度に大きく表示されては消えていく数値。男がその数値の端数すら見逃すまいとか目をこらす。
認識すら難しい勢いで流れていく数値に男が目を光らせていると、
「あいた! 無重力は移動がありがたいが、油断するとあちこちに頭ぶつけるよな……」
男は天井に頭を軽くぶつけてしまい一人で愚痴を漏らす。
完全な無重力ではないようだ。天井に頭をぶつけた男はその勢いもあってか床に戻ってくる。
「加速器異常なし――と。まあ、コントロールセンタのモニタでも数値は分かってるけどね。やっぱ久しぶりにここにくると、こいつを直に見ないとね」
男は天井からゆっくりと降りてくると金属製の管を頼もしげに触る。手が先に管に届き男の足がその後床に着地した。男の足の裏がカチャッと軽い音を立てて床に着く。
「遠心力による擬似的な微量の重力。そして足裏に張りつけた磁石の磁力による金属製の床への固定。せっかくの宇宙なんだから、全部無重力にすればいいのに。無粋だな」
男はそのまま床を歩き出す。それは地上の歩き方とは少し違うようだ。前に歩く為にヒザを上げると、やや遅れてブーツが着いてくる。足の裏についている磁石のせいで、粘り着くような足取りで男は一歩一歩前に進む。
「さて、我が教え子は。今頃打ち上げ準備にてんやわんやかな」
男は天井に向かって情報端末を向ける。そのモニタの一角を指で触れるや光のツブを散りばめた薄明るい空間が表示される。
「むむ、茨状発光体。無粋だね。宇宙ってのは、漆黒の闇に宝石のようにちりばめた星々がいいってのに……」
外部のカメラと連動しているのか男が左右に情報端末を傾けると、それに合わせてモニタの中の星々が煌めきながら揺れた。
その端に時折一際明るい光が入り込む。宇宙をぐるりと囲む茨状発光体だ。それが写り込むとモニタの中の宇宙はハレーションを起こして真っ白になってしまう。
「てか、地球はこっちか」
男はしばらく宇宙を眺めた後、一人でつぶやくと今度は情報端末を床に向けた。薄明るい宇宙空間を背景に青い星が白い雲をたなびかせるようにまとっている姿がそこに浮かぶ。大写しになった地球は緩やかな湾曲を宇宙にさらしていた。
「ビンゴ。宇宙センターの丁度上辺り――てな訳にはいかないか。もうちょい斜めにっと……ついでに拡大……」
男が情報端末を斜めに傾けてそのモニタに指を走らせる。
モニタに写し出されたのは白い雲の合間からのぞく青い海に浮かぶ緑に覆われた島々。男の指が更に踊るとその島の一部が大写しになった。緑に囲まれた一角に近代的な設備が配置された宇宙センターが写し出される。
「……」
男はその光景に頬を緩める。
「さあ、待ってるよ我が教え子くん。今度は宇宙でバーベキューをしよう。グリルはこの宇宙に浮かぶ粒子加速器――SSS8だ」
男は愛しげに加速器の管を撫でる。
「そして、君の信念が成った暁には、それでパーティをしよう。そう――」
男は情報端末をすっと脇に降ろし、
「天空は和音する――それが成った暁にはね」
先に見上げた天井の――その向こうを見上げながらつぶやいた。
(『天空和音! キグルミオン!』八、気宇壮大! キグルミオン! 終わり)
改訂 2025.08.25