プロローグ
天球は和音す――
ヨハネス・ケプラー(1571〜1630)。数学者。天文学者。物理学者。
惑星――天球の軌道直径を導き出したケプラー。彼は惑星は和音を奏でていると信じた。
プロローグ
「天球は和音す。いい言葉だと思うわない? 惑星が和音を奏でるのよ」
白衣の女性が夜空を見上げた。
特徴的なややつり目がちの目。その鋭い瞳をきりりと細め、不自然なまでに明るい満点の星空を、彼女はその瞳に写し取る。
「元々は古代の哲学者ピタゴラスが、太陽系の星々の軌道を見て言い出したの。そして後に天動説を完全に否定したケプラーが、この考え方を引き継いでね。ケプラーは神秘主義に傾倒していた部分があってね。哲学者にして、数学者にして、魔術師とも言われたピタゴラスの考えがとても気に入ったんじゃないかしら。それで惑星が和音を奏でるって考えたみたい」
白衣の彼女はその目をつむり、今度は耳を澄ませてみせる。
まるで今まさに、この星空で奏でられている和音に耳を傾けたかのようだ。
「惑星が歌ってくれるのよ。私達がよって立つ世界である地球も含めてね。じゃあ宇宙は? この世界そのものである天空は、どんな和音を奏でてくれのかしら? 私は天球和音という言葉を思い出す度にそう思ってしまうわ。天空は和音をしないのか――ってね。和音で私達に語りかけてこないのかしらってね」
彼女はそのつり目をゆっくりと開け、静かに背後に振り返る。そこはビルの上だった。
都会のビルの上。夜半を過ぎた夜空とはとても思えない、奇妙なまでに明るい星空がその上空には広がっていた。
そうそれは満天の夜空の星々の光でなかった。別の異質な何かが夜空を輝かせていた。
彼女の背後にいたのは、何処まで丸いフォルムを持つ人のような何かだった。
「ましてや、何かを私達に伝えるつもりじゃないのかしら――ってね」
白衣の女性は自問するかのように微笑んだ。
「宇宙は謎よ。謎だらけよ。私達物理学者はこの謎をダークだと呼んでいるわ。ダークマターに、ダークエネルギー。ダークフローとかね。我々はようやく重力波をとらえたところ。でもね、重力子は見つかっていないし、超対称粒子は予想の域を出ない。全てを説明してくれる万物の理論は私達の手にはまだまだ遠いわ。次元は十一次元かもしれないし、重力はその次元を漏れ出ているのかもしれない。不思議なことばかりでしょ? 宇宙は謎だらけなのよ」
「……」
丸いフォルムは応えない。
「宇宙は何も教えてくれないわ。でも意地悪もしないのよ。あるがままにそこにあるだけ。ダークだと思ってしまうのは、私達の知識が足りないだけなのよ。宇宙はちゃんとそこにある。だから私達自身で解明するしかないの。そうね、今まさにこの地球に起こっているこの不思議から解き明かすべきかしら」
白衣の彼女は天を見上げた。
そこには茨状の謎の発光体が、天空の端から端まで覆うように浮かび上がっていた。それはそれ自身が優しい曲線を描きながら、その端々にやはり優美な刺のような曲線を生やしている。全てが眩いばかりの光線だ。
今の夜空はそれが闇を照らしている。
ある者はそれを天に召しました救世主の茨の冠だと言う。ある者は聖母が祈りの為に瞑っている瞳だと言う。またある者は今まさに、人類に天罰を食らわさんとしなりを上げている神の刺のムチだとも言う。
いずれにせよそれは誰にも何であるか理解できていない。
ある日突然現れ、夜を昼のごとく明るく染めながらもう何年も天に輝いていた。
そう今の星空は不自然な程明るい。それは地上の人工の光が満点の夜空を邪魔する以上に、その謎の発光体が天空で輝いているからだ。
「……」
丸いフォルムを持つ人のような何かが頷いた。
「いきましょう。私達ならそれが――」
白衣の女性は相手に応じて頷いた。
「そうよ。私達のキグルミオンなら、この世界を救うことができるわ」
そして身をひるがえすと、謎の茨状発光体を背に力強く歩き出した。
改訂 2025.07.29