1.冬の予感
11月下旬。桜川市の空は、まるで誰かが薄い墨を流したかのように、淡く冷たい灰色に染まり始めていた。
星陽高校の中庭「木漏れ日テラス」。数週間前まで、黄金の絨毯のように鮮やかだったイチョウの葉も、今ではその大半が乾燥してカサカサと音を立て、冬を急かす冷たい風に舞っている。テラスの人工芝の上には、寒さを凌ぐための屋外用ストーブが数台設置され、そこから立ち上る陽炎が、冬枯れの景色をわずかに、そして物悲しく歪めていた。
「……はぁ」
羽純凛は、コーヒーカウンターの端で小さく、重い息を吐いた。白く濁った吐息が、彼女の目の前でふわりと消えては、また冬の空気に溶けていく。凛の視線の先には、自分の淹れたエスプレッソを真剣な、しかしどこか辛そうな表情でテイスティングしている日向蒼太の背中があった。
蒼太は極端に寒さに弱いのか、厚手のダッフルコートの襟を限界まで立て、時折肩をすくめて自分を抱きしめるようにしている。豆の感触を確かめるその指先はわずかに赤く、冷たい空気の中で繊細な抽出作業を続けるのは、彼にとって肉体的にも精神的にもかなりの負担であることは明白だった。
「蒼太さん、またあんな寒い所で……。せめてカイロでも持っていればいいのに」
凛は喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。彼女にとって、蒼太は単なる部活の仲間ではなく、特別な存在だった。しかし、彼の瞳の先にあるのはいつも「理想の味」や「未知の豆」、あるいはそんな彼を太陽のような明るさで支え続ける星野結の姿だ。
自分に何ができるだろう。凛は自問自答する。温かいコーヒーを淹れることはできる。だが、液体は喉を通り過ぎる一瞬の温もりでしかなく、胃を温める以上の満足感を与えるには、今の彼にはもっと、芯から持続する「熱」と、疲労を癒やす「滋養」が必要な気がした。
ふと、視線を右に転じる。そこには、香ばしくも甘い独特の香りを振りまきながら、無骨な背中で黙々と作業を続ける少年がいた。
潮崎蓮。1年生ながら「たい焼き専門」という、バリスタ部の中では異質とも言える役職を任された、純然たる職人気質の少年だ。彼は重厚な鉄製のたい焼き機を、まるで己の手足のように自在に操り、次々と黄金色の魚を鉄板から「救い出し」ていた。
(……たい焼き。あれなら、食べ終わるまで一定の熱が持続しますね。それに、たっぷりの小豆に含まれる糖分は、集中しすぎて疲れ切った脳の特効薬になるはずです)
一度思い立ったら、凛の行動は迅速だった。それがどれほど突拍子もないことだとしても。彼女は流れるような動作で黒髪を耳にかけ、泰然とした、それでいてどこか攻撃的な足取りで行動を開始した。
翌日、凛は蓮の聖域――たい焼きコーナーへと足を踏み入れた。
「潮崎くん。少し、相談があるのですが」
「あ? なんだよ、お嬢様。ドリップの道具でも壊したか? それとも抽出の計算式が狂ったか?」
蓮は鉄板から一切目を離さず、吐き捨てるように答えた。その声には、作業を邪魔されたことへの微かな苛立ちが混じっている。
「失礼ですね。そんな初歩的なミスはいたしません。……そうではなく、単刀直入に申しますわ。私に、たい焼きの焼き方を教えてくださらない?」
その言葉に、蓮の規則的なリズムを刻んでいた手が、初めて止まった。彼はゆっくりと、信じられないものを見るような目で顔を上げ、凛の整った、しかし決意に満ちた顔立ちを無遠慮に眺めた。
「……寝言は寝て言えよ。お前、粉もんなんて最初の入部テストの時以来触ったことねえだろ。その白くて細い、いかにも温室育ちの指が火傷で真っ赤に腫れ上がっても、俺は一切責任取らねえぞ。いや、取るつもりもねえ」
「覚悟の上です。私は、妥協のない、完璧な一枚を焼きたいのです」
凛の瞳には、一切の迷いも、冗談もなかった。それは、彼女がエスプレッソの抽出管理で見せる、あの「精密な機械」と見紛うほどの鋭い眼差し――最高傑作を追い求める者の光だった。




