5.プロのテラス、息つく暇もない現実
ミーティングが終わると、新入生三人は、テラスに移動し、営業開始前の最終準備と、実際の営業風景を見学することになった。
「じゃあ、蒼太くん、蓮くん、結さん。まずは、私たちの仕事の『現実』を、よく見ておいてね」と楓は言った。
午後4時。チャイムが鳴り終わり、生徒たちが部活動へと向かう時間になると、テラスの営業が静かに、しかし厳かに開始された。
部員たちは一斉に動き出す。その動きは、無駄がなく、流れるようで、蒼太が普段目にする部活動のそれとは、一線を画していた。
接客統括の沢村陸は、フロアの中心に立ち、大きな声で「いらっしゃいませ!」と挨拶をする。陸の笑顔は豪快で、彼の周りだけ、熱量が一段階上がったように感じられた。
最初の客は、男子バスケットボール部の三年生らしき集団だった。
「よっ、陸!いつものブレンドLで、ホットなやつ頼むわ!」
「おう!いつもサンキューな、タケ!今日はお前らの練習試合のあとの疲労回復を考えた、少し深煎りのブレンドを淹れるぞ!」
陸は、客のニーズを一瞬で察知し、ユーモアを交えて返答する。
続いて、制服姿の女子生徒が二人。
「あ、すみません。美咲先輩の新作、『桜と抹茶のたい焼きパフェ』ありますか?」
「もちろんです!今日はトダテツくんのラテアート入りの『季節のラテ』もおすすめです!」
真琴が、横からメニューボードを指差しながら、明るく説明を加える。彼女の笑顔と声には、商品への自信と、聞く人を引き込む魅力があった。
蒼太は、陸の姿に完全に圧倒された。 陸は、客の表情、会話のトーン、制服の着こなし方から、その日の気分や体調までを読み取っているようだった。そして、客が言葉にする前に、適切な声かけ、適切なメニューの提案を、淀みなく行っている。
(速い。早すぎる。僕が注文を取るだけで、きっと1分以上かかってしまう。お客様の顔を見て、笑顔で、淀みなく…僕には絶対に無理だ)
特に、教員らしき女性客が来た時の陸の対応は、神業のように見えた。
「沢村くん、お疲れ様。午後の会議で疲れたわ。今日は、胃に優しくて、少し甘いものが欲しいんだけど…」
「色々と気づかれをされますよね…。それなら、雫が今日焙煎した浅煎りのエチオピアに、美咲先輩特製の『焦がしキャラメルたい焼き』のセットはいかがですか?胃もたれせず、糖分補給できますよ!」
「あら、完璧ね。お願いするわ」
陸の接客は、単なる注文取りではない。「顧客への価値の提供」そのものだ。 一方、エスプレッソマシンの横では、望月雫が、抽出の秒数をストップウォッチで計り、挽いた豆の粒度を拡大鏡で確認している。彼女の周りだけは、静かな実験室のようだった。
「雫さん、今の抽出、少し圧が弱かったんじゃない?」と河合翔が声をかける。
「ええ、湿度が僅かに上がった影響ですよね。グラインドを0.5ミクロン、細かく調整してみます」
雫は、抽出時間と気象条件を結びつけ、即座に理論的な対応策を導き出す。
テラスは、数分で満席になり、上級生たちは息つく暇もなく、抽出、接客、会計、そして機材の調整に追われている。 蒼太の心は急速に冷えていく。昨日、楓に励まされた決意の炎は、目の前の「プロ意識の現実」という冷たい水によって、今にも消えそうだった。
(そうだ。僕はここに、いるべきじゃない。僕が足を引っ張れば、この人たちが提供する「価値」を、損なってしまう)
蒼太は、テラスの隅で俯き、再び逃避の衝動に駆られた。




