1.不穏な準備期間
10月下旬、星陽高校は1年で最も「動」のエネルギーが爆発する季節を迎えていた。 文化祭である「星陽祭」が、自分たちの世界を深く掘り下げる内向きの熱狂だとするならば、体育祭は外向きの、純粋な身体能力と団結力が試される戦場だ。秋の高く澄んだ空の下、校庭からは連日、応援団の太鼓の音と、土を蹴る無数の足音が響いてくる。
「いいか野郎ども! 勝敗なんて二の次だ! 大事なのは、明日筋肉痛で動けなくなるまで笑って、叫んで、馬鹿騒ぎすることだ! 青春のガソリンを全部ここで使い果たそうぜ!」
体育館の壇上で、体育祭実行委員として集められた生徒たちにメガホンも使わずに拳を突き上げているのは、体育祭実行委員長に選出されたバリスタ部部長・沢村陸だ。彼の持ち味である底抜けの明るさと、理屈を抜きにして周囲を巻き込む「お祭り精神」は、連日の準備で疲れ果てた生徒たちの心に火を灯す、劇薬のような効果を持っていた。陸がいるだけで、殺風景な体育館の空気が一気に華やぐ。
「沢村君。以前も言ったはずだ。マイクを使わずに大声を出すのは喉の無駄遣いだし、近くにいる僕の鼓膜にも優しくない。もう少し理性的になってくれないか」
そんな陸の背後に、冷や水を浴びせるような冷静な声が響いた。副委員長の桐生 啓だ。生徒会会計を務める2年生の彼は、11月の役員選挙で次期会長の座が確実視されているエリートである。眼鏡の奥の瞳は常に論理的な数字を追い、陸とは正反対の「効率と管理」を至上の美学としていた。
「おいおい桐生、そんな堅いこと言うなよ! 祭りは喉を枯らして、心臓の音を隣の奴に聞かせるくらいが丁度いいんだろ?」
「祭りは、緻密な計画が狂いなく遂行されて初めて、成功という『結果』を得られるんだ。君がさっき独断で許可した応援団の追加練習のせいで、僕が算出した機材搬入のタイムスケジュールは、すでに32分40秒の遅延を叩き出している。……無駄を省き、リスクを最小限に抑え、生徒全員の安全と公平を期す。それが実行委員会の、そして僕の仕事だ」
陸がガハハと豪快に笑い、桐生が眉を寄せて手元のタブレットに厳しい視線を落とす。 星陽高校の次代を担う二人のリーダーの激突は、準備期間の初日からすでに激しい火花を散らしていた。
一方、中庭の「木漏れ日テラス」でも、体育祭という特殊な環境に向けた独自の準備が進んでいた。
「……真琴先輩、これくらいですかね? あんまり入れすぎると、しょっぱくなりすぎるっすよね」
蓮が、ボウルの中で丁寧に練り上げられた餡に、慎重に塩を振りかけていた。 体育祭期間中、バリスタ部は主力商品であるコーヒーの提供を一時停止する。コーヒーに含まれるカフェインには利尿作用があり、炎天下や激しい運動に伴う極限状態での水分補給には適さない。これは、元プロの視点を持つ顧問の香月の、極めて理論的な判断によるものだ。
「ええ、いい塩梅よ、蓮くん。運動後の身体は、驚くほど正直にミネラルを欲しがるわ。その微かな、けれど確かな塩気が、疲れ切った心まで癒やす最高のご褒美になるはずよ」
副部長の泉真琴が、餡の粘り気を確認しながら満足そうに頷いた。 今年のラインナップは、自家製ハチミツを贅沢に使った「レモン10個分のビタミンレモネード」と、香ばしさを極めた冷やし麦茶。そして、ミネラル補給とエネルギー補充を両立させた『特製・塩餡たい焼き』に特化している。
「コーヒーが出せないのは、私たちのアイデンティティを少し削られるようで寂しいですけど……でも、テラスが戦うみんなの『給水所』であり『避難所』になれるって思うと、すごくやりがいを感じるね、蒼太くん!」
星野結が、レモンの黄色が鮮やかなポスターを掲げて微笑む。 隣で備品の在庫をダブルチェックしていた蒼太は、「……うん。僕にできるのは、その時の気温に合わせて、レモネードの酸味と甘みの比率を微調整することくらいだけど……誰かの力になれるなら、精一杯やりたい」とはにかんだ。
その蒼太の視界の端に、静かに立ち上がる黒髪が映った。新入部員の羽純凛だ。彼女はすでに、ストップウォッチと気温計を手元に置いていた。
「蒼太さん。私は、当日のあなたの出走時間における湿度と風速を計算し、最も体温を奪わずに爽快感だけを与える氷の配合比を導き出しました。……あなたの勝利のために、私は私の職責を果たしますわ」
「あ、ありがとう、羽純さん……。でも、僕は障害物競走に出るだけだし、あんまり期待されると心臓が保たないよ」
蒼太の困惑をよそに、結が頬を膨らませて凛を睨みつける。 10月の爽やかな風の中に、レモンの香りと、そして微かな火薬の匂いが混じり合っていた。




