3.太陽と月
翌日から、羽純凛の「仮入部」が始まった。
彼女の登場は、バリスタ部の日常を一変させた。 凛は弓道を習っていたということもあり、立ち振る舞いが非常に美しい。コーヒーを淹れる所作一つをとっても、無駄な動きが一切なく、まるでお点前を見ているような錯覚に陥る。
しかし、最大の問題は、彼女が「日向蒼太の隣」から片時も離れようとしないことだった。
「日向さん。グラインダーの粉、先ほどとはコンマ数グラムの誤差があるように見受けられます。微調整いたしましょうか?」
「あ、いや……それは僕がやるから、羽純さんはあっちの……」
「いいえ。私はあなたの補助として参りました。……もっと近くで、あなたの技術を盗ませてください。いいですね?」
凛が、蒼太のパーソナルスペースを軽々と踏み越え、至近距離で彼の顔を覗き込む。 蒼太は、彼女から漂う沈丁花のような清らかな香りに、心臓が爆発しそうになっていた。
「う、うわっ……。近い、近いよ、羽純さん!」
「あら。そんなに赤くなられて……。意外と、初心なのですね。そこも素敵です」
クスクスと、しかし表情を崩さずに凛が微笑む。 その光景を見ていた結は、もはや怒りを通り越して、魂が抜けかかっていた。
「……ありえない。あんなの、不意打ちだよ。蒼太くん、あんなに顔赤くしちゃって……」
「結ちゃん。手が止まっているわ」
真琴に注意され、結はハッと我に返った。 彼女は「太陽」の接客を心がけてきたが、今日ばかりは笑顔が引き攣っている。
「ねえ、真琴先輩。羽純さんって、ちょっと……あざとくないですか?」
「あざといっていうか、あれは『天然の天然』というか……。自分の美貌を武器にしている自覚がないからこそ、タチが悪いわね」
真琴の冷静な分析に、結はますます焦りを募らせる。 これまでは、蒼太の隣にいるのは自分だけの特権だった。内気な彼を引っ張り、新しい世界を見せてあげるのが自分の役目だと思っていた。 だが、凛は違う。彼女は蒼太の「内側の世界」に、同じ目線で入ろうとしている。
「蒼太くん! ほら、フロアにお客さん来たよ! 早くショット出して!」
「あ、う、うん! すぐに!」
結は努めて明るい声を出し、蒼太をこちら側の世界――客や仲間たちのいる広い世界へと引き戻そうとする。 しかし、凛はその度に、蒼太の背中に寄り添うようにして静かに囁くのだ。
「……日向さん。外がどんなに騒がしくても、私だけはあなたの味方を、理解者を見ています。落ち着いて、いつもの一杯を」
「うぐっ……」
蒼太の背中が強張る。 「動」の太陽である結と、「静」の月である凛。 二人の少女の視線が、テラスのカウンター越しに火花を散らす。
蒼太は、自分が淹れているのがエスプレッソなのか、それとも自分の胃液なのか分からなくなるほどの胃痛に襲われ始めていた。




