2.月が綺麗ですね
その日の夕方。 空には薄い雲が広がり、間もなく訪れる「中秋の名月」を予感させるような、穏やかな黄昏時だった。
テラスの一角には、美術・ラテアート担当の戸田哲也が美術部から借りてきたという、巨大な油彩画が飾られていた。 深い藍色の夜空に、銀色に輝く巨大な満月が描かれた、圧倒的な存在感を放つ名画だ。
「いいよなあ、月ってのは。孤独で、それでいて全てを照らす」
戸田が感心したように絵を見上げている。
そんな時だった。 人工芝を静かに踏みしめる足音がして、一人の少女がテラスの入り口に立った。
蒼太は、その瞬間、空気が物理的に冷たくなったような錯覚に陥った。
「……いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
蒼太がカウンター越しに声をかける。 そこにいたのは、腰まで届く艶やかな漆黒のストレートロングを持った少女だった。 切れ長の瞳は深い群青色を湛え、透き通るような白い肌が、制服の紺色と鮮やかなコントラストを描いている。彼女が立っているだけで、そこが教室ではなく、どこか格式高い武道場か、あるいは静謐な図書室であるかのような錯覚に陥る。
少女は、蒼太の言葉にすぐには答えなかった。 彼女はまず、壁に飾られた月の絵を一瞥し、それからゆっくりと視線を蒼太へと移した。
そして、鈴の音のように清らかで、しかしどこか重みのある声で告げた。
「……月が、綺麗ですね」
一瞬、テラスに沈黙が流れた。
「あ、はい……」
蒼太は、純粋に戸惑って答えた。
「そうですね。戸田先輩が美術部から借りてきてくれたんです。本物みたいに綺麗ですよね。あ、でも、今日は雲が出てるから、本物の月が見えるかは微妙かもしれませんけど……」
蒼太の「文字通り」の返答を聞いた瞬間。 背後の機材チェックをしていた望月雫が、ガタリと椅子を鳴らして振り向いた。 その眼鏡の奥の瞳が、面白そうな獲物を見つけた科学者のように、怪しく光っている。
「……ふふ。蒼太くん、君は本当に『品質管理』以外には疎いんだね」
「えっ? 雫先輩、何か僕、変なこと言いました?」
蒼太が首を傾げたその時、少女は僅かに口角を上げ、蒼太を真っ直ぐに見据えた。
「いいえ。それでこそ、私が目指した日向蒼太さんです」
「え、僕のこと……知ってるんですか?」
少女は一礼し、自らの素性を明かした。
「失礼いたしました。1年D組、羽純 凛と申します。……これまで帰宅部として過ごしてまいりましたが、此度、このバリスタ部への入部を希望しに参りました」
その言葉に、部内が騒然となる。 特に結は、手に持っていたメニュー表を床に落とし、呆然と凛を見つめていた。
「入部希望? ……それも、この時期に?」
陸が眉を寄せて尋ねると、凛は淀みなく答えた。
「はい。星陽祭の日、私はこのテラスで、ある光景を目にしました。……喧騒に満ちた祭りの中心で、誰とも群れず、ただ一杯の液体に魂を注ぎ込む、一人の殿方の姿を。その孤高の美しさに、私は射抜かれたのです」
凛の瞳の中に、回想の景色が浮かぶ。 それは、凄まじい行列を前に、一滴の妥協も許さずエスプレッソを抽出していた蒼太の姿。 周囲の騒がしさを一切遮断し、ただ『最高の一杯』だけを追求するその横顔に、彼女は自分と同じ「孤独」と、それを超越した「情熱」を見出したのだ。
「私は決めました。この方の隣で、この方の支えになりたい。……日向さん、あなたと共にコーヒーの道を歩ませてください」
「え、ええええええっ!?」
蒼太は顔を真っ赤にして後ずさりした。 「隣で」という言葉の響き。そして凛の放つ、圧倒的な美少女としての圧力。
「お、おい蒼太! やるじゃねえか!」
「蒼太くん、これは……大波乱の予感だねぇ」
陸がニヤニヤしながら蒼太の肩を叩き、戸田が楽しげにスケッチブックを広げる。 しかし、その影で。 結は震える拳を握りしめ、青ざめた顔で凛を凝視していた。
「……月が、綺麗ですね……って。……蒼太くん、それ、そういう意味だよ……?」
結の呟きは、誰の耳にも届かぬまま、秋の夕闇へと消えていった。




