1.新体制、始動
10月に入ると、星陽高校のキャンパスは急速に秋の色を深めていった。 校庭の銀杏が微かに色づき始め、放課後の風には、半袖のシャツでは少し肌寒さを感じるような、冷涼な透明感が混じり始める。
9月下旬の「星陽祭」という巨大な祭典が終わり、その狂騒の余韻もようやく静まった頃。本館中庭にある「木漏れ日テラス」は、かつてない静寂の中にあった。
いや、正確には静寂ではない。営業は通常通り行われている。 ただ、そこにはもう、これまでの柱であった三人の3年生――楓、翔、美咲の姿がない。その事実が、テラスの空間をいつもより広く、そして少しだけ心細いものに見せていた。
「よし。蒼太、次の豆の計量、よろしく。沢村部長、フロアの布陣はこれでいい?」
カウンターの中でテキパキと指示を飛ばすのは、副部長に昇格した泉真琴だ。 彼女の背後では、新部長となった沢村陸が、腕を組んでフロア全体を鋭く見渡している。
「ああ、真琴。完璧だ。……しかし、やっぱりまだ慣れないな。楓さんたちがいないと、こうも空気が変わるもんか」
陸が少しだけ肩の力を抜いて苦笑する。 その隣で、蒼太は慎重にコーヒー豆をスケールに乗せていた。
「……僕も、まだ。抽出の時に、つい楓先輩の顔色を窺おうとしちゃうんです。でも、振り返ってもそこには誰もいなくて」
蒼太の声は、以前よりも少しだけはっきりと響くようになっていた。 品質管理責任者。その肩書きが、内気だった彼の背中を、見えない力で支えている。
「蒼太くん、そんなに暗い顔しないで! 私たちが、新しいテラスの色を作っていくんだよ!」
フロアから戻ってきた星野結が、弾けるような笑顔で蒼太の肩を叩いた。 結の存在は、今のバリスタ部にとって文字通りの太陽だった。3年生が抜け、どこか緊張感と寂しさが同居する部内の空気を、彼女の明るい声が絶え間なく繋ぎ止めている。
「結さん……。うん、そうだね。寂しがってばかりじゃ、せっかくの豆が泣いちゃうし」
「そうそう! その意気だよ、蒼太くん!」
結は蒼太の顔を覗き込むようにして笑う。 その距離は、文化祭以前よりも確実に近くなっていた。 あの祭りの喧騒の中、勇気を出して掴んだ袖の感触。二人きりで聴いた吹奏楽の旋律。そして、指先を絡めた「来年も一緒に」という約束。
それ以来、二人の間には「友達以上恋人未満」という言葉がこれ以上なく似合う、甘酸っぱい微熱のような空気が漂っている。 周囲の部員たち――特に真琴や雫あたりは、「早く付き合えばいいのに」と生温かい視線を送っているのだが、当の本人の蒼太は、あまりの環境の変化と責任の重さに、自らの恋心を決定的な言葉にする勇気をまだ持てずにいた。
結の方も、蒼太の隣にいることが当然の権利であるかのような振る舞いを見せつつも、最後の一線を越えることには臆病になっていた。今のこの、崩れそうで崩れない絶妙なバランスが、心地よくもあり、同時にもどかしくもあった。
「……おい、お二人さん。惚気るのはいいが、客が来てるぞ」
たい焼きの鉄板を磨いていた蓮が、低い声で釘を刺した。 彼は2人と同じ1年生ながら、職人気質の腕前を買われ、新体制では会計補助も兼任する重要ポストに就いている。
「わ、わわっ、惚気てなんてないよ! 蓮くんも、そういうこと言わないの!」
赤面して慌てる結と、カップを落としそうになる蒼太。 変わらない光景。しかし、運命の歯車は、秋の風に乗って音もなく忍び寄っていた。




