1.喧騒
9月下旬、週末。私立星陽高等学校は、一年で最も熱い二日間に突入していた。 秋の気配を含んだ冷涼な風が吹き抜ける中庭。しかし、その中心に位置する「木漏れ日テラス」の周囲だけは、真夏が戻ってきたかのような、物理的な熱気に包まれていた。
幕式天井から差し込む柔らかな陽光が、丁寧に手入れされた人工芝の緑を鮮やかに照らす。しかし、その穏やかな景観を塗りつぶすように、テラスの周囲には三重、四重もの長蛇の列が蛇行しながら形成されていた。今日だけ応援に来てくれた最後尾の看板を持つ生徒は、もはや校舎の角を曲がった廊下の入り口まで追いやられている。
「お待たせしました! 次の方、ご注文をどうぞ! お会計はこちらで承ります!」
結の明るく透明感のある声が、周囲の喧騒を鋭く突き抜けて響く。彼女は広報担当として、凄まじい勢いで押し寄せる客を、まるで舞うような手際で捌いていた。 その隣では、沢村陸が鋭い視線で列の最後尾を確認し、拡声器を使わずに地声で列を整理している。
「陸先輩、整理券あと30枚で一時ストップです! 抽出が追いつきません!」
「了解だ、結。お前、笑顔は崩れてないが呼吸が浅くなってるぞ。今のうちに水を飲んでおけ。午後からはもっと地獄になる」
カウンターの内側では、地獄のような忙しさが続いていた。 「紫影のノクターン・ラテ」――結と蒼太が試作の末に辿り着いた、あの秘密のカップの記憶が宿る新メニューは、SNSで『飲む宝石』と称され、空前の大ヒットとなっていた。
「ほうじ茶ペースト、補充お願いします! 蓮くん、たい焼きの予備が切れそうです!」
「会計、一万二千円ちょうどお預かりします! 真琴先輩、五千円札が足りません、チェックをお願いします!」
会計と在庫管理を一身に担う泉真琴の指先は、電卓とレジを叩くリズムが完全に一体化し、もはや打楽器の連打のように聞こえる。そしてテラスの隅では、潮崎蓮が額に汗を浮かべ、神業のような速度で「名物たい焼き」の金型を返し続けていた。香ばしい生地の焼ける匂いが、コーヒーの香りと混ざり合い、空腹の客たちを刺激する。
「……よし。蒼太、エスプレッソ三連、いくぞ。ここが踏ん張りどころだ」
蓮の低い声に応じ、蒼太は巨大なエスプレッソマシンに向き合った。 蒼太の視界からは、周囲の喧騒も、行列に並ぶ人々の視線も消えていた。聞こえるのは、スチームの鋭い噴射音と、グラインダーが硬い豆を均一に挽いていく規則的な振動だけ。
(ボイラー温度、92.3度。抽出圧は9気圧で固定。豆のメッシュ設定は……完璧だ。昨日よりも湿度が低い分、少しだけタンピングを強くする)
蒼太は、品質管理責任者としての誇りを一滴のエスプレッソに込めていた。かつては人混みを見るだけで動悸がし、逃げ出したいと思っていた少年が、今はコーヒーという名の「盾」と「剣」を手に、戦場の中心で静かに、しかし情熱的に踊っている。
結がフロアからカウンターへ戻り、蒼太が抽出したばかりのラテを手に取る。その際、二人の指先が微かに、しかし確かな熱を持って触れ合った。
「蒼太くん、最高の味だよ! 飲んだお客さん、みんな『今までで一番』って言ってる!」
結の弾けるような笑顔。蒼太は一瞬、心臓が大きく跳ねるのを感じたが、すぐに視線を抽出レバーに戻した。照れ隠しのように、しかし丁寧に次のショットの準備を始める。
「……うん。僕も、今までで最高のショットが出せている気がする。結さんが隣にいてくれるから」
二人の間に流れるのは、言葉による説明を必要としないほどの深い信頼感だった。あの備品庫での「秘密のテイスティング」で共有した、味の調和点への感覚。それが、この極限状態における完璧な連携のバックボーンとなっていた。
「テラスの魂、ちゃんとみんなに届いてるね」
結の小さな呟きに、蒼太は力強く、しかし静かに頷いた。




