5.秘密のテイスティング
結は、美咲を納得させるために、蒼太の持つ「感覚の言葉」を「論理」に翻訳する作業に取り掛かった。
時間がない。テラスの営業時間中、テラスの裏手にある備品庫の隅で、二人は試作を開始した。備品庫は照明が薄暗く外の喧騒とは隔絶された、二人だけの密室だった。
「いい? 蒼太くん。美咲先輩を納得させるには、緩衝材の論理が必要よ。紫芋の『重い影』を、エスプレッソの『激しい渦』から守る素材を見つける!」
結は、様々な素材(スパイス、ナッツ、紅茶、生姜、柚子など)を試飲させ、蒼太の反応をチェックした。
蒼太は、その一つ一つを詩的な言葉で表現する。
「ナッツは……硬すぎる。壁になって、衝突を助長する。駄目だ」
「紅茶は……薄すぎる。水たまりになって、渦を全部吸い込んでしまう。これも違う」
「柚子は……味が飛び跳ねすぎて、紫芋の静けさを乱してしまう」
二人は、熱心に試作を進めた。時間がないため、結は試作品を淹れては、すぐに小さなテイスティングカップに濃縮液を入れ、蒼太に差し出す。
「これは? ほうじ茶を濃く抽出してみたの。温かい木の香りがする」
「うん、ちょっと待って……」
蒼太はそれを一口飲み、すぐに結に手渡す。
「僕は、この焦げたような香ばしさが好きだ。この香ばしさが、紫芋とコーヒーの間に入って、優しく馴染んでくれる気がする。結さんも飲んでみて!」
「ええと……」
結は、蒼太が飲んだばかりの同じ飲み口で、それを一口試す。温かいカップから、微かに蒼太の体温と、ほうじ茶の香りが漂ってくる。
「これだ! 蒼太くん、この香ばしさは、まるで茶色の絨毯みたい! 柔らかくって、紫芋の重さを優しく受け止めてくれる! これが緩衝材になる!」
二人は、最高の味を追い求める一心で必死であり、その都度、たった一つのカップを交互に共有し、何度も何度も試飲を重ねた。カップの飲み口には、エスプレッソの微かな泡の跡と、二人の唇から移った水滴が、まるで秘密の痕跡のように残っていた。その行為が「間接キス」を意味しているという事実に、二人は全く気づいていなかった。彼らの脳内は、ただ「味の調和」という唯一の目標で満たされていた。
数十回の試飲の末、ほうじ茶の香ばしさを「緩衝材」にし、エスプレッソのコクを「温かい支柱」として活かす、究極のバランスが見つかった。
蒼太が最後に残った一口を飲み終え、感動に震えた声で言った。
「完璧だ……! 重い影が、温かい木の根っこに抱きしめられたようだ。全ての味が、一つに溶け合っている! これなら、絶対に美咲先輩を納得させられる!」
結は心から喜び、カップを手に取り「やったね、蒼太くん! 私たちの勝利だよ!」と最高の笑顔を向けた。
その瞬間、結はカップの飲み口に、自分と蒼太、二人の薄い唇の跡が残っているのをはっきりと見て、ハッと気づいた。
(嘘……ずっと、二人で、このカップを……! 私、蒼太くんと、間接キスを、何度も、何度もしていた……!しかも、こんな、二人だけの密室で……!)
結の顔は熱で一気に茹だったようになり、思考が停止した。心臓がドクドクと警鐘を鳴らし、全身の血液が顔に集中していくのを感じた。
蒼太も、結の顔色と、彼女が凝視しているカップの飲み口を見て、すぐに同じ事実に気づいた。彼は一瞬で耳まで真っ赤にして、備品庫の壁に硬直する。
(……! あんなに必死だったから気づかなかったけど、僕と結さんが、唇を……!)
二人は顔を見合わせることもできず、何も言葉を交わすこともできなかった。備品庫の中は、甘いほうじ茶の香りと、二人の高鳴る心臓の音だけが響いていた。
しかし、この「秘密のテイスティング」が、二人の間に、誰にも知られてはいけない、甘酸っぱい、特別な秘密となったことを、二人は強く意識した。




