1.秋の熱狂
9月上旬。夏休み明けの喧騒が、熱の引かないまま星陽高校を包んでいた。
生徒たちの視線の先にあるのは、下旬に開催される星陽祭(文化祭)だ。校舎のあちこちには、クラスや部活の出し物を告知するポスターが貼られ、放課後の廊下は資材を抱えた生徒たちが行き交う熱狂の渦だ。ペンキの匂い、木材を打ち付ける音、そして何よりも、目標に向かう高校生たちの焦燥と期待が入り混じった熱気が、校舎全体を包み込んでいた。
バリスタ部が活動拠点とする「木漏れ日テラス」も例外ではない。いつもの穏やかな雰囲気とは違い、部員たちの表情には緊張と期待が交錯していた。テーブルの配置が何度も検討され、壁の装飾用のプランターが手入れされている。
「私たち3年生にとって、この星陽祭は最後の舞台よ」
部長の橘楓が、エスプレッソマシンが鎮座するカウンターを背に、部員たちに語りかけた。その声は穏やかだが、強い決意に満ちていた。楓の瞳には、テラスへの愛情と、受験という避けられない未来への決意が同時に宿っているようだった。
「私たちはこのテラスを、ただの休憩所から、星陽高校のシンボルに変えることができた。その集大成を、今年の新メニューで見せつけたいの。この一発の成果が、来年以降の1、2年生が活動を続けるための、確固たる実績になる」
隣には副部長の河合翔が、そしてメニュー開発担当の香西美咲が立っている。楓、翔、美咲の3年生トリオは、この文化祭が終われば、本格的に受験モードに移行する。特に美咲は、その重圧を誰よりも感じていた。テラスの運営から半ば引退することになる彼らにとって、星陽祭は未来のバリスタ部、つまり1、2年生にテラスの魂を託すための、重要な引退試合だった。
「だからこそ、新メニューには妥協が許されないわ」
美咲が鋭い視線を結に向けた。美咲は、そのプレッシャーからか、いつも以上に論理的で厳格な雰囲気だった。彼女の視線は結だけでなく、テラスの未来、そして受験という現実を見据えていた。
「文化祭は戦場よ。集客と回転率が全て。今年のテラスの目標は、全出店中、利益率トップを獲ること。そのためのメニュー戦略が鍵になる」
美咲は競合するクラスや部活の出店情報をまとめたプリントを示した。タピオカ、クレープ、フライドポテト――すべてが若者に人気があり、効率の良いメニューだ。彼女は淡々と数字と事例を並べた。
「私たちの新メニューは、まず第一に見た目のインパクトでSNSでの話題性を確保し、第二にオペレーションの簡略化で回転率を上げること。味は安定した最低限の品質でいい。提供に5秒以上かかる複雑なレシピは排除するわ」
美咲の言葉に、結は思わず反論した。
「美咲先輩、ちょっと待ってください! 味を二の次にするなんて……それじゃあ、テラスがテラスじゃなくなっちゃいます!」
結は主に広報とフロアを担当するが、彼女自身、バリスタ部の一員としてテラスのコーヒーの味に強い誇りを持っている。彼女の理想は、テラスが単なる流行の場所ではなく、本物の味を追求する場所であることだった。
「テラスの魂は、エスプレッソのような本質的な味の深さにあるんじゃないですか? 私たちがプロのバリスタ部として立つなら、ただの利益追求で終わるメニューは作れない。誰でもできるようなことをして、テラスの評判を落としたくないんです」
美咲の表情が厳しくなる。3年生の「限られた時間で確実な成果を」という焦燥と、1年生の「テラスのプライドと魂を守る」という理想論が真っ向からぶつかり合った。
「結、あなたは呑気すぎよ。私たちに残された時間はどれだけなの? 星陽祭はあっという間にやってくる。私たちにはもう時間の余裕がない。あなたの言う『魂』を優先して、提供に時間がかかり、客足が遠のく方が、よほどテラスの未来を危うくするわ。私たちは今、テラスを成功させる責任があるのよ」
美咲の言葉には、孤独な闘志が込められていた。結はぐっと押し黙った。3年生の重い決意を、自分は軽視していたのだろうか。しかし、味を妥協して文化祭を乗り切ったとして、テラスに何が残るのだろうか?
やはりこのまま美咲の理論だけでメニューを決定することはできなかった。テラスには、見た目だけではない、心を打つ最高の味が必要だ。
美咲の論理を打ち破るには、味の絶対的な根拠が必要だ。そして、その根拠を提供できる人物はただ一人。
「美咲先輩、ちょっと時間をください。絶対に先輩が納得できる、絶対的な味の自信があるメニューを、持ってきますから」
結はすぐに蒼太に向き直った。
「蒼太くん、お願いがあるの。私と一緒に、休日にカフェ巡りに行ってくれない? 新メニューのアイデアを探すのに、蒼太くんの特別な味覚が必要なの!」
蒼太はカウンターの隅で、いつも通り目立たないように立っていた。彼は結と美咲の対立を緊張しながら聞いていたところだった。突然、結に声をかけられ、しかも二人きりでの外出に誘われたことに、彼の心臓は激しく暴走し始めた。
(僕と結さん、二人きりで、私服で、街へ……!? これを世間では、その、デートと呼ぶのではないだろうか? いや、違う、これはテラスを救うための極秘業務だ。だが、女の子と二人きりの業務というものは、僕の人生において最も難易度の高いコミュニケーション・クエストに違いない!)
蒼太は顔を真っ赤にして、声も出せず、まるで痙攣したかのように何度も頷くことしかできなかった。彼の内面の動揺は、誰にも伝わらない小さな振動となって全身に現れていた。
結はその反応を、蒼太らしい可愛らしい戸惑いだと受け止め、満面の笑みを浮かべた。
「よし! じゃあ、今週末ね!」




