6.テラスの土台
翌朝、夜明けと共に、翔は最後の仕上げ作業に取り掛かった。昨晩、香月に「3日間は経過したが、作業の目処は立った。朝まで待ってほしい」と連絡を行い、了承を得ていた。これが最後のチャンスだ。作業時間は一時間ほど。遮熱材を挟み込み、ダンパーを微調整する。彼の指先は、今やコーヒーを淹れるバリスタの指ではなく、繊細な機械を扱う職人の指そのものだった。
翔が組み込んだアナログ対策は、驚くほど効果的だった。温度と圧力の変動は、最小限に抑えられ、抽出されるエスプレッソのクレマは、黄金色に輝き、厚く、均一だった。匂いも、味も、最高の安定性を示している。
翔は、エスプレッソを試飲し、静かに目を閉じた。
「……完璧だ。これなら、テラスの品質を保証できる」
父親や工員たちも、その品質の高さに感心した。
「やったな、翔。お前の技術は、機械を直すだけじゃない。客の信頼を守る技術だった。それが、お前のバリスタとしての仕事なんだろう」
父は、初めて心からの笑顔を見せた。
翔は修理を終えたエスプレッソマシンをテラスへ運び入れた。部員たちは、マシンの姿を見るや否や、歓声を上げる。
「翔先輩、おかえりなさい! そして、お疲れ様です! 本当に直したんですね!」
結が駆け寄り、感激のあまり涙目になっている。
「さすが翔さん。頼りになります、副部長! テラスの危機を救ってくれてありがとうございます!」
陸も興奮を隠せない。
香月が、カウンターに現れた。
「約束の期限、少しおまけしてあげてギリギリだったわね。技術には感服するわ。だが、問題は品質だ。学校の備品として、不安定な抽出は絶対に許されない」
翔は黙って、修理後の一番のエスプレッソを淹れた。全員がテイスティングするためのカップが並ぶ。
その一杯を飲んだ部員たちの顔が、驚きと感動で満たされる。
「うそ……完璧だ。クレマの厚みも、味のバランスも、修理前より安定している」
美咲が目を丸くする。
「まるで、新しいマシンみたい」
蒼太は静かにカップを置いた。
「雑味が、完全に消えている。微細な圧力変動がない。今までのエスプレッソを、むしろ超えているかもしれません。翔先輩の技術が、テラスの品質を、さらなる高みへと押し上げた」
香月も、エスプレッソを一口飲んだ後、満足そうに頷いた。
「見事な安定性だ。物理的な修理に留まらず、品質を保証するための工夫まで施した。君は、最高の技術を持つ、テラスの守護者だ。ありがとう、河合」
そして最後に、翔は、修理を手伝ってくれた父親と工員たちをテラスに招待した。
「親父、おっちゃんたち。本当にありがとうございました。感謝の印に、最高の豆で淹れたエスプレッソと、蓮のたい焼きをどうぞ」
翔が淹れたエスプレッソは、町工場の職人たちの油まみれの手に渡された。
父親は、エスプレッソのコクをゆっくりと噛みしめながら、静かに言った。
「技術ってのは、こうやって人に喜んでもらって初めて価値が出るもんだ。お前が追いかけているのは、この一杯の喜びか。お前の居場所は、ここにあるんだな」
テラスの日常は、エスプレッソマシンの再稼働と共に完全に戻った。蓮のたい焼きと、翔の安定したエスプレッソが、再び最強のタッグを組む。テラスの成功は、華やかな接客や抽出技術だけでなく、河合翔の地道で冷徹な技術力という、目に見えない強固な「土台」に支えられていることが、部員全員の心に深く刻まれたのだった。




