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星陽高校バリスタ部  作者: やた
第10話 歯車の音

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4.品質の壁

 翔は、父親やベテラン工員たちの助言を借りながら、工場にある耐熱材料や、古い機械から取り出したジャンクパーツを使い、問題の制御回路の代替品を組み上げる作業に没頭した。彼の頭の中では、電子回路図と、エスプレッソの抽出理論が同時に動いていた。


「このトランジスタとコンデンサを組み合わせれば、元の基板の制御特性に近い出力を再現できるはずだ。熱を逃がす放熱板も必須だな。圧力弁の作動が不安定になるのを防ぐ、ダンパーもいる」


 この代替部品の製作には、ミクロン単位の精度が求められた。エスプレッソマシンは、わずか0.1℃の温度差や、0.5バールの圧力変動で味が大きく変わる繊細な芸術品だ。彼は父親に頼み、極限まで熱処理を施した特殊合金の板を、焼け焦げた基板のサイズに合わせて旋盤で削り出してもらった。工場に響く金属加工の重低音は、普段テラスで聞くエスプレッソマシンの優雅な作動音とはかけ離れていたが、その音こそが、新しい心臓を作り出す鼓動だった。


 町工場のプロフェッショナルたちが、高校生の翔をサポートする。彼らが使う道具は、一般的なドライバーやペンチではなく、溶接機や旋盤といった、巨大なものだった。彼らは口出しせず、ただ必要な技術と工具を提供してくれた。


 テラス側は、最後の限定営業日を迎えていた。客足は依然として少ないが、部員たちの集中力は極限まで高まっていた。


「もうすぐ期限です。翔先輩、きっと直してくれます。私たちは、最高のドリップでお客様を迎えましょう! いつもの倍、集中します!」


 結が皆を励ます。


 楓のプレッシャーは計り知れないものだった。彼女は、翔がいないことで、部員全員の精神的な柱とならねばならない上に、ドリップの最高品質を維持する重責を担っていた。蒼太は、普段以上に集中力を研ぎ澄まし、豆の膨らみ、湯の落ちる速度、抽出後のドリッパーの底に残るコーヒー粉の状態ベッドを細かく観察し、一滴の雫にすべての魂を込めていた。彼らの努力は、エスプレッソという「本質」の不在を、ドリップの「精緻さ」でカバーしようとする、極限の挑戦だった。


 楓は、テラスのドリップステーションに立ち、自身の集中力を最大限に高めていた。軽井沢で香月に叩き込まれた「完璧な一杯の再現性」を、今こそ発揮する時だ。彼女は、ドリップを通じて、翔がいない穴を埋めようと必死だった。


 午後4時。修理期限まであとわずか。香月が業者に連絡を入れる時刻が迫る。


 町工場では、翔が代替部品の組み込みを完了させ、最終チェックに入っていた。彼の顔は油と汗で汚れ、まるで別の人間のように見えた。


「これで……いけるはずだ!」


 翔が電源を入れると、マシンは無事に起動した。ボイラーは湯を沸かし、ポンプは正常な音を立てて動き始める。いつもテラスで聞いていた、あの安心感のある駆動音だ。


「動いた……! やったぞ!」


 翔は工員たちと歓喜の瞬間を迎える。成功の喜びが、工場中に響いた。


 すぐに試運転として、翔は豆をグラインドし、タンピング、そして抽出を行った。完璧な手順。


 エスプレッソが流れ落ちる。しかし、抽出されたコーヒーは、クレマが薄く、すぐに消えてしまった。


 試運転で流れるエスプレッソは、最初の数秒こそ勢いが良かったものの、すぐに途切れがちになり、目標の25秒前後を大幅に超えて35秒近くかかってしまった。


 抽出中には、「カチッ、カチッ」という、ポンプの圧力弁が不安定に作動しようとする微かな音が混ざり、機械が制御を失っていることを示していた。


 クレマは薄く、濃い茶色ではなく、水っぽい褐色に近かった。その見た目の不安定さが、味の混乱を予告していた。一口飲むと、不安定な温度と圧力のせいで、酸味と苦味が分離したような、まとまりのない味がした。抽出スピードも、微妙に遅い。


「……動いたが、ダメだ」


 翔はカップをテーブルに置き、頭を抱えた。成功の喜びは、一瞬で消え去った。


「機械の『動き』は戻ったが、バリスタが求める品質の再現性は戻っていない。物理的な稼働と、抽出の安定性には、これほどの大きな差があるのか……」


 彼は、テラスの扉が閉ざされてしまうことよりも、質の悪いコーヒーを提供することで、部がこれまで積み上げてきた「プロ」としての評価を地に落としてしまうことを恐れた。


 それは、町工場で「不良品を出すな」と教えられてきた職人としての倫理と、香月に「結果の品質こそ全て」と教えられたバリスタのプロ意識が、激しく衝突する瞬間だった。彼にとって、動けばいいというレベルで妥協することは、何よりも許されない裏切りだった。


 翔は、香月の教えを思い出した。プロは、目に見える動きではなく、結果の品質に責任を負う。このままテラスに戻しても、雑味のあるコーヒーしか出せない。それは、テラスの看板に泥を塗ることになる。修理を断念して業者に頼むよりも、さらに悪い結果になる。彼は、機械の修理工として成功したが、テラスの副部長としては失敗しようとしていた。

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