2.不在の重みと扉
翔は早速、マシンの分解作業に取り掛かった。故障の匂いが残るテラスの隅で、精密ドライバーとレンチが繊細な音を立てる。その作業は、カフェのカウンター裏で行うにはあまりに専門的すぎた。
楓が心配そうな顔で尋ねた。
「翔、何か手伝うことはある? あまり無理しないでね。私たちにできることがあれば言って」
「楓はフロアを頼む。工具は専門的なものしか使えないし、手伝ってもらうにも限界がある。このマシンは、構造が複雑すぎる」
翔は手を止めずに言った。彼はボイラー周りのカバーを慎重に外し、内部の電子回路を露出させた。
その瞬間、翔の顔色は明らかに曇った。
(……ヒューズが溶けてるだけじゃない。ポンプを制御する基板の一部が、完全に焼け焦げている。抵抗値もおかしくなっている。これは、ただの接触不良じゃない。電気系統の、かなり深刻なダメージだ。修理には、特殊なハンダ付けと、代替部品の自作が必要になるかもしれない)
この深刻な事態は、翔の口からすぐに部員たちには伝えられなかった。部員たちが不安になるだけだ。彼はすぐにマシンを修復不能な状態にまで分解し、故障箇所を特定した重要パーツを取り外した。
その日から、木漏れ日テラスは限定営業を強いられた。エスプレッソがない。テラスの主力が失われたことで、その影響は甚大だった。
「すいません、今日はエスプレッソマシンが故障中でして……ドリップコーヒーと、本日のたい焼きのみの営業になります。たい焼きは、蓮が自信をもって焼き上げています!」
陸が、来店した教職員に丁寧に頭を下げる。
「あら、そうなの? エスプレッソの苦味が欲しかったのだけど。じゃあ、また今度にしましょうか」
そう言って帰っていく客もいる。テラスは、開店以来初めての閑散とした雰囲気に包まれ、活気が失われていた。
「ちくしょう! やっぱりエスプレッソがないとダメだ!」
蓮が悔しそうにたい焼きを焼く手を止める。いつもの陽気さが失せている。
「俺のたい焼きも、エスプレッソと一緒にあってこそ、最高のペアになるのに! ドリップだと、パンチが足りないんだよ!」
蒼太は、普段より豆を細かく挽き、濃い目のドリップを試みていたが、その顔は冴えない。
「……エスプレッソの、あの力強い香りと、舌に残るクレマのコク、そして抽出のスピード感。それらはドリップでは再現できない。濃く淹れても、エスプレッソの持つ『凝縮感』とは別物だ。この限界を、お客様はすぐに感じてしまう」
蒼太は、普段は穏やかだが、品質に対する厳しさは誰にも負けない。
限定営業の苦闘の中、美咲がタブレットを操作しながら、厳しいデータを突きつけた。
「真琴と雫の分析通りだわ。ドリップの品質は上がっているけど、客足はエスプレッソがある時の半分以下。特に教職員の来店が激減してる。テラスの魅力は、ただの休憩所じゃなくて、高品質なエスプレッソという『専門性』にあったのね。あのマシンと翔の技術あってこその評価だったんだわ」
陸が深く頷く。
「エスプレッソマシンも、翔先輩も、俺たちが普段、当たり前にあると思ってた『土台』だったんだな……テラスのカウンターに立ってるだけじゃ、見えないものがある」
部員たちが裏方の重要性を痛感している頃、翔は、楓と陸に手伝いを頼み、エスプレッソマシンを実家の町工場へと運ぶ準備をしていた。
「翔先輩の家って、本当に町工場だったんですね……! 想像よりずっと大きい」
陸は、静かな住宅街の奥に突如現れた、金属と油の匂いがする大きな工場を見て圧倒された。「河合精機株式会社」と書かれている工場のシャッターは大きく、内部からは機械の駆動音が聞こえてくる。
工場内には、大型の旋盤や溶接機、そして精密機器を扱うためのクリーンルームまで備わっていた。翔の父親をはじめ、数人の職人たちがテキパルスーツ姿で作業に当たっていた。工場の空気は、テラスの洗練された雰囲気とは全く違う、硬質で実直なものだった。
「親父、これ運んだよ。丁寧に扱ってくれ、学校の備品だ」
翔が声をかけると、作業中だった父親が顔を上げる。
「おう、香月先生から話は聞いている。だが、コーヒーメーカーの修理なんて、やったことないだろ。部活の趣味も仕事も中途半端になるなよ。やるなら徹底的にやれ」
口調は厳しかったが、その目は息子への信頼と、わずかながら期待を宿していた。
楓は、普段の冷静な翔が、この場所では一人の職人として受け入れられている空気を感じた。陸は、普段のテラスでは見られない翔の姿と、工場全体のプロフェッショナルな雰囲気に、ただただ圧倒されるしかなかった。テラスを支える翔の技術は、この町工場で培われたものなのだと、彼女たちは深く理解した。




