1.夏の喧騒と沈黙
8月下旬。夏休みも残りわずかとなり、空の色はまだ強い日差しをたたえているものの、どこか秋の気配を含み始めていた。太陽は窓ガラスを透過して、テラスの床に長く揺らめく光の筋を作り出している。
木漏れ日テラスは、いつも通りの静かな活気に満ちていた。通常の放課後ほどではないが、この時期は補習や合宿帰りの生徒で賑わい、いつにも増して利用者の顔ぶれが多様だ。部活を終えた運動部の生徒、補習で疲れた様子の生徒会役員、そして教職員らが入れ替わり立ち替わり訪れる。
バリスタ部の面々は、その需要に応えるべく、各々の役割に集中していた。エアコンの効いた室内で、蓮がたい焼きを焼き、蒼太がドリップコーヒーを静かに淹れていた。特にエスプレッソメニューは、カフェインを求める教職員にとって欠かせない存在となっていた。
「はい、お待たせしました! アイスアメリカーノと、餡子増し増しのたい焼きです! 今日は特別にきな粉トッピングでサービスです!」
広報担当の結が、いつものように快活な笑顔でトレーを運ぶ。1年生の彼女にとって、夏の営業は体力勝負だ。しかし、彼女の明るい声がテラスの雰囲気を支えている。
副部長の河合翔は、カウンターの奥で、エスプレッソマシンを点検していた。彼の担当は機材保守。地味だが、テラスの心臓部を守る重要な役割だ。彼はいつも、抽出後のポートフィルターを磨く際や、ボイラーの圧力計を確認する際に、五感を集中させてマシンの状態を探っていた。
「……あれ?」
翔は耳を澄ませた。マシンが湯を沸かすボイラーの奥から、普段の安定した作動音とは違う、微かな擦過音が聞こえた気がした。金属が僅かにこすれ合うような、神経質な音。昨日の閉店前の点検時にはなかった音だ。このマシンはテラスが開店した時からあるようだから、マシンの耐用年数を考えれば、いつ不具合が出てもおかしくない。
「どうしたの、翔? マシンの調子悪い? 流量チェックは問題なかったわよ」
部長の楓が、穏やかな声で尋ねる。楓は、エスプレッソの抽出スピードの僅かな変化も見逃さない、繊細な感覚を持っていた。
「いや、ちょっと変な音がしただけ。微かだけど、ボイラー周りのどこかの部品に無理がかかってる気がする。すぐにチェックする」
翔は手元のノートにメモを取り、工具箱に手を伸ばそうとした、その瞬間――
「ガガガッ! シュゥゥゥウ……」
ボイラーから突然、機関銃のような激しい異音が響き渡り、エスプレッソマシンはまるで最後の悲鳴を上げるかのように、全ての動作を停止させた。けたたましい電子音と共に、焦げたようなプラスチックと金属の匂いが、コーヒーの芳醇な香りをかき消してテラスに充満する。
「え、なに!? 煙出てない?? ショートしたの!?」
結が悲鳴を上げる。客席にいた生徒たちも、驚いて立ち上がった。
「うわっ、やばい。マシン、完全に沈黙したぞ……電源も落ちてる」
陸が慌てて駆け寄る。彼は普段陽気だが、突然の非常事態に動揺を見せている。
翔はすぐさま主電源を落とし、冷却を試みる。その間に、顧問の香月が事態を把握し、冷静に業者へと連絡を入れた。香月はこういう時こそ動じない、プロフェッショナルな表情を崩さなかった。
数分後、香月はクールな表情を崩さぬまま、しかしその声には明確な厳しさを含ませて結果を告げた。
「残念ながら、修理の担当者はすぐには手配できないそうだ。夏の繁忙期で、エンジニアが手いっぱい。修理担当のエンジニアが手配できるのは、早くても2週間後になる」
「2週間……!?」
美咲が声を上げる。美咲は、テラスの広報戦略を統括している。
「そんなに待ったら、テラスの客足が完全に途絶えちゃうわよ。特にエスプレッソ目当ての教職員の方々が離れたら、この後の文化祭の集客にも響くわ。テラスの信用問題よ!」
テラスの主力商品であるエスプレッソが使えない。それは、単なるメニューの欠品ではなく、テラスの存在意義の根幹が揺らぐことを意味した。部員たちの顔には、焦りと絶望の色が広がった。
その重い空気を打ち破ったのは、エスプレッソマシンの前に立ち尽くしていた翔だった。彼は既にマシンの背面パネルを外し、内部の破損状況を把握していた。
「俺が、直す」
全員の視線が翔に集まる。彼は焦燥する部員たちの中で、唯一、冷静沈着だった。
「俺は、実家が町工場で、小さい頃から機械いじりをしてきた。工具も知識も、多分、部員の中では俺が一番持ってる。この故障の規模なら、専門的な工具があれば、俺がなんとかする」
蓮が目を丸くする。
「マジっすか、翔先輩? いや、先輩の機材愛は知ってますけど、学校の備品のエスプレッソマシンって、そんな簡単なものじゃないでしょう……」
「簡単に直せないことは分かってる。制御基板にダメージがある。だが、二週間も待つのは致命的だ。今から他の業者を探しても、結果は同じだろう。俺がやるのが、一番早いし、テラスにとって最善の選択だ」
翔は冷静に言い放つ。
香月は腕を組み、鋭い視線を向けた。彼女は生徒の情熱を買うが、規則には厳しい。
「河合。学校の備品だ。君の個人的な趣味や、半端な知識で、これ以上壊してしまっては困る」
「リスクは承知しています」
翔は真っ直ぐに香月先生を見つめた。
「ですが、先生が常々言っている通り、プロは最善の策を選ぶべきです。2週間営業が滞るリスクと、俺が3日間で修理に挑むリスクを天秤にかければ、後者の方が合理的です。俺の技術が、テラスの活動を止めずに済む可能性をわずかでも高めます」
翔の専門的な知識と、その理論的な返答に、香月は一瞬の沈黙の後、深くため息をついた。彼の実家が町工場であることと、彼自身も技術系科目で学校トップクラスの実力を持っていることは、香月も知っている。そして、翔の決意の固さと、テラスへの責任感を理解したのだ。
「わかった。ただし、私と君だけでなく君のご家族との間で約束を交わす。タイムリミットを設ける。3日間だ。この3日間で修理の目処が立たなければ、すぐに業者に依頼する。絶対に無茶はしないこと。徹夜での作業など、高校生がすべきではない」
「ありがとうございます、先生。無茶はしません」
翔は一礼し、マシンへ向き直った。彼の顔には、既にエンジニアとしての真剣な表情が浮かんでいた。
「テラスの営業は、俺以外の皆に任せる。ドリップとたい焼き、それにマニュアル通りの点検を頼む。この3日間、俺はここには戻らない」




