8.星の教室
3日目の夜。軽井沢の夜空は、湿度の低い澄んだ空気のおかげで、都会では決して見ることのできない、息をのむほどに満天の星々で埋め尽くされていた。天の川が、銀色の霧のように空を横断し、まるで頭上に壮大なプラネタリウムが広がっているようだった。
香月は、セミナーハウスの屋上に続くテラスで、一人、星空を見上げていた。冷たい夜風が、彼女の乱れた髪を揺らしていた。その横顔には、昼間の指導者としての厳しさはなく、ただ一人の人間としての深い傷と孤独が滲んでいた。
楓と美咲が彼女を探し出し、そっと近づいた。二人は、香月の過去の傷を直視することの恐ろしさを感じながらも、部を救うために勇気を出した。
「先生……ごめんなさい。蓮も、言いすぎました。でも、先生の気持ちを知りたいんです。なぜ、そこまで完璧にこだわるのかを」
楓が、部員たちの戸惑いを、静かに、しかし真剣な声で伝えた。
香月は、大きく深呼吸をした後、意を決したように部員全員を星空の下に集めた。部員たちは、香月の前に静かに座り込んだ。星の光だけが、彼らの顔を照らし、彼らの間にあった隔絶を、少しだけ和らげていた。
「私がなぜ、君たちにプロの基準を求めるのか。なぜ、技術の完璧さを、部活動の範疇を超えて叩き込もうとするのか。それは、私の失敗が理由だ。潮崎の言う通り、私は一度、最高の舞台から降りた負け犬だからだ」
香月は静かに語り始めた。彼女は、世界最高峰のバリスタとして活躍していた過去、世界大会で優勝し、すべてを手に入れたこと。そして、その慢心の中で、最も大切なものを失った経験を。
「私は、自分の技術に傲慢になっていた。『自分のコーヒーは、誰が淹れても同じではない。世界一だ』と。プロ意識とは、誰かを感動させるためだけでなく、誰かを裏切らないための責任だということを、忘れていた」
「数年前、私のコーヒーを心から愛してくれた、病床に伏せる親友がいた。彼女は私に、最後の願いとして『涼子が淹れる、完璧な一杯のコーヒーが飲みたい』と頼んだ。私は、連日の大会やメディア対応に追われ、疲弊しきっていた。それでも、何とか時間を作って病院に行った。そこで淹れた一杯は、わずかに私の緩慢さが出たものだった。抽出のタイミングも、タンピング圧も、いつもなら許容しない、わずかなブレがあった」
「親友は、私のコーヒーを飲むと、一瞬不思議そうな表情をした気がした。しかしすぐに、いつものように満面の笑みで『ありがとう、涼子のコーヒーは最高に美味しいよ』と言ってくれた。私はその笑顔に安心して、プロとしてのチェックを怠ったまま、彼女の病室を後にした」
「それから間もなく、親友は亡くなった。葬儀の場で、私は遺族から言われた。『最後に飲んだコーヒーは確かに美味しかったが、何となく雑な味がした。でも、涼子さんは忙しいのに、わざわざ来てくれて、もしかしたら疲れているのかもしれないと思って、その時は黙っておこうと思っていた。でも、もし今日のことを思い出す事があったら、私の事は気にしないで、そして涼子自身も健康に気をつけて欲しい、とあの子が言っていたわ。ごめんなさいね、あの子からは黙っていてもいいって言われたんだけど、どうしても伝えなきゃって思って』と」
香月は、その時の衝撃を思い出し、言葉に詰まった。夜空の下で、彼女の目には涙が滲んでいた。
「私は深く後悔した。私が淹れるコーヒーは、何度でもやり直せる、たくさんの中の一杯かもしれない。だが、飲む相手にとって、それは人生で最後の一杯になるかもしれない。その一杯に、プロとしての誠意と完璧な技術を込められなかった。それが、お客様の信頼と命の重さに対する、プロの責任だということを、私はその時初めて思い知った。私が高校の教員になった理由は、以前も少し話したが、数学には誰がどう淹れても数値化できる理論的な美しさがあるからだ」
「純粋に数学を追求するなら研究者になるべきだろう。だが、私が数学教師になったのは、この理論の美しさと、それを支えるべき倫理のどちらも、君たちに教えたかったからだ。理屈が完璧でも、それに携わる人間の心が乱れれば、結果はすぐにブレる。その人間の心のあり方こそが、プロの倫理だ」
「そして、この合宿。先日がその親友の命日で、最近のテラスは確かに明るい雰囲気もあるが、バリスタとしてもっと厳しくすべきなのではと思って、私も少し自分を見失っていた。教員として恥ずべき態度だ、反省している。だが、テラスに限らず、バリスタになるということは、その裏には、誰かの大切な時間を守り抜く、それ相応の覚悟が必要であることを、心の底から理解してほしい」
香月の言葉は、技術論ではなく、命の約束の重みとして、部員たちの心に深く突き刺さった。彼女が求めていた「完璧さ」とは、自己満足のためではなく、お客様の「信頼」を裏切らないための、最低限の責任だったのだ。
結は、涙を流した。彼女は、自分の安易な言葉が、どれほどテラスの誠実さを傷つけたかを思い出し、香月の言葉の重みを初めて理解した。
蓮は、職人としてのプライドが、香月の悲痛な告白によって打ち砕かれ、そして再構築された。彼は、完璧さとは、自己表現ではなく、他人への奉仕であることを学んだ。
そして蒼太。彼は、顔を上げ、静かに星空を見つめた。彼は、コミュニケーションが苦手な自分でも、技術を通じて、誰かの心を支え、誰かの大切なものを守ることができると知った。彼の心の中で、「誠実さ」という感情と、香月の「責任」という論理が、一つに重なった。彼は、言葉を発せずとも、香月が教えてくれたプロの意識を、全身で受け止めた。
この星空の下での告白は、彼らにとって、単なる指導ではなく、「プロの魂」を受け継ぐ儀式となった。




