7.触れてはいけない過去
沈黙の特訓が続く3日目の午後。とうとう、この膠着状態を打ち破る決定的な事件が起こった。
蓮が淹れたエスプレッソは、またしてもタンピング圧のブレから抽出ムラを起こし、香月は静かにカップを流しに捨てた。それは、蓮にとってこの合宿で十数杯目の失敗作だった。
「潮崎。なぜ、昨日よりも品質が落ちている? 集中力が欠如している。君は、自分の身体を制御できていない」
香月の声には、わずかな諦めが混じり始めていた。
「集中力はあります! 俺は真剣にやっている! でも、これ以上、どうしろっていうんですか!」
蓮は初めて、香月に対して声を荒げた。
「俺たち高校生が、そこまで完璧なプロになる必要なんてあるんですか!? 俺たちは、たい焼きとコーヒーで、皆を笑顔にしたいだけなのに!」
蓮の不満は、個人的な苛立ちを超え、部員全員の疑問を代弁するものだった。そして、彼は、部員たちが噂で聞いていた、香月の触れてはいけない過去に、自暴自棄な感情を込めて言葉をぶつけた。
「そんなに完璧なプロ意識が大切なら、なぜ先生は一流の舞台から降りて、高校の顧問なんかやっているんですか! 過去の栄光ばかり語って、俺たちの気持ちなんて分かりっこない! 先生は、ただの負け犬じゃないですか!」
その瞬間、香月の表情が一変した。彼女は激しく動揺し、瞳の奥に宿っていた冷徹さが、一瞬にして深い苦痛と、抑えきれない怒りに変わった。その動揺は、これまで彼女が見せたことのない、あまりにも人間的なものだった。
「……今の言葉を、取り消せ、潮崎」
香月は、低い、絞り出すような声で言った。その声は、これまで部員たちが聞いたことのない、生々しい、心の底からの感情を帯びていた。彼女の身体は、微かに震え、テーブルの端を強く握りしめていた。
蓮は、自分が言ってはいけない、彼女の過去の核心に触れてしまったと、後悔と恐怖に襲われた。香月は、もうこれ以上、その場に留まることができないと悟り、怒りを抑えきれない様子で、特訓の中断を宣言し、「もう指導はしない」という言葉を、まるで呪いのように残して、研修室から駆け去ってしまった。
香月の指導放棄という事態に、部員たちは完全に凍りついた。テラスの指導体制は完全に崩壊し、部員たちの間には、もう後戻りできないほどの深い亀裂が生じた。絶望的な重苦しさが、軽井沢の冷たい空気のように、全員の心を覆った。




