3.理想と現実
初日の厳しい特訓を終え、夕食を済ませた部員たちは、疲労感と不満で重く沈んでいた。軽井沢の夜は冷涼で静かだが、セミナーハウスの自室は、部員たちの熱い戸惑いで満ちていた。
「ちょっと、あれはやりすぎだ。タンピングの圧力がちょっと違うだけで、エスプレッソを全部流しに捨てるなんて。俺の身体が覚えるまでやらせるのが、職人の指導なんじゃないのか? 失敗作から学ぶことだってあるはずだ」
蓮が、自分の手のひらを擦りながら、声を潜めて不満を漏らした。彼は、職人としての「根性論」を重んじるがゆえに、香月の「冷徹な論理」に反発を感じていた。
「そうだよね、蓮くん。私たちはプロの競技者じゃないのに。テラスのコンセプトは『憩い』でしょ? 完璧な一杯よりも、心を込めることの方が大切なんじゃないかな。あんなに厳しくされたら、コーヒーを淹れるのが嫌になっちゃう」
結は、技術よりも「感情」や「楽しさ」を優先する立場から、指導のやり方そのものに反発を感じていた。
陸は、接客統括として皆をまとめようとするが、彼の心にも迷いがあった。
「確かに香月先生はすごい元プロなんだろうけど、俺たちが目指すのは、あくまで部活動のカフェだ。プロの意識が必要なのはわかるけど、ここまで徹底しないと、テラスの独自性や、俺たち自身の楽しむ権利が失われるんじゃないか?」
美咲と楓は、指導者と部員の間に立ち、意見が分かれていた。
「香月先生の指導は、極端だけど正しいと思う。あの品質の安定性こそが、SNS炎上を乗り越えたテラスの信用を、揺るぎないものにする基盤になる。曖昧な品質は、再びテラスを危機に晒すわ」
美咲は、冷静な経営者の視点から香月の論理を擁護した。
「でも美咲、あのやり方だと、皆の『コーヒーが好きだ』という純粋な気持ちが潰れてしまうわ。コーヒーを淹れる喜びが失われたら、テラスはただの訓練所になってしまう。テラスは、誰かが潰れる場所であってはならないの」
楓は、部長として、部員たちの精神的な健康と、テラスの本来のコンセプトを優先しようとした。
この議論の中で、蒼太だけは、黙々とドリップ器具を洗浄し、次の日の準備をしていた。彼は、会話に参加しないことで、自分の内なる葛藤を隠していた。
(何の意味があるのか? 30ポンドの再現性に、0.5秒の注湯のブレ。その完璧さが、僕が淹れる一杯のコーヒーに、どれだけの『心』を込めることを許してくれるのだろうか? 僕は、技術でしか他者と繋がれないのに、その技術が、こんなにも完璧で、冷徹なものだとしたら……)
蒼太は、自分の技術を「感情を排除した、冷たい論理」として定義し直すことに、存在意義の危機を感じていた。彼の心の葛藤は、そのままテラス全体が直面する「技術の向上」と「心の温かさ」という「理想と現実の壁」を象徴していた。




